アーメン
(アーメン)
ヘブル語で「真実に」の意。教会では、主に祈りや賛美・説教の時などに使われる。 「本当にその通りです」「本当にそうなりますように」の意味。証し (あかし)
神様が自分に対してくださったこと(救い・特別な配慮すなわち恵み・聖書や試練からの教訓など)を他の人々に話すこと。贖い (あがない)
奴隷に売られた者、あるいは敵の手に陥った者を、身代金を払って買い戻すこと。 聖書の中では、罪と関連させて「罪の赦し」を意味することが多い。私たちは、罪を犯したため、罪の奴隷、悪魔の奴隷になってしまった。そこで神は、その愛のゆえに、イエス・キリストの十字架の血という尊い「身代金」を払ってもう一度私たちを買い戻し、神の子としてくださった。悪魔 (あくま)
目に見えない霊的存在で、絶えず神に反逆している。サタンとも呼ばれる。最初の人アダムが神様よりも悪魔の言うことに従うことを選んで以来、生まれながらの人間は皆、この悪魔のとりこ(神に背を向ける者)になっている。憐れみ (あわれみ)
悪魔は元は神様の働きをする天使の長であったが、自分自身が神の代わりになろうとし、その尊い立場を失い、地に落とされた。悪魔と共に堕落した天使たちが、「悪霊」と呼ばれる霊的存在の者である。
神様の私たちへの愛の一つのあらわれ。栄光 (えいこう)
私たちが自らの過ちによって受けなけらばならない当然の恥や呪い、罰を、神様が愛によって免れるようにして下さること。その最たるものがイエス様の十字架。
イエス様は私たちの罪の恥と呪いと罰を十字架の上で代わりに受けて下さった。
「あわれみ」D受けるはずのものを、受けないこと。 恵みと違う。
→恵み
神様の素晴らしさのこと。例えば聖書は、イエス・キリストは神の栄光の現れであると言っている。つまり、イエス・キリストによって神の素晴らしさ…聖さ・正しさ・愛・喜び・平安・寛容など…が遺憾なく発揮された。負目 (おいめ)
私たち人間の生きる目的も、神の栄光・素晴らしさを私たちの体で日々の生活において現すことである。
負目…すべきことをしないこと。
「咎」も「負目」も共に神の前に罪である。
→罪、 咎
キリスト・イエス
(キリスト・イエス)
救い主イエスの意。「キリスト」はヘブル語“メシヤ(「油注がれた者」の意)”のギリシャ語訳。「救い主として、神から特別に定められた者」という意。義 (ぎ)
聖書は、イエスこそ、その救い主メシヤ(キリスト)であることを宣言している。 それで、キリスト・イエス(またはイエス・キリスト)と並べてその名を呼ぶようになった。
従って、聖書が「イエス・キリストを信じるなら救われる」という意味は、「イエス・キリストという名と姓を持った者が存在したことを信じる」という意味ではなく、「イエスを自分の罪の救い主キリストと信じる者が救われる」という意味である。
正しいことの意。聖書には「善悪の知識」は神様のものであり、天と地を創造された神様にこそ善悪の絶対的基準があると教えている。従って義とは、神様の前での正しさ、神の目でご覧になって正しいことを指している。悔い改め (くいあらため)
聖書にある「信仰による罪人の義認」というのは、神様がイエス・キリストを自分の罪の救い主と信じる者を、イエス様の十字架のゆえに、義人と認めてくださることを言っている。
神様の要求に完全にかなった行為をして義人と認められる人は、一人もいない。イエス・キリストの十字架は、それゆえ神の義と愛の完全な現れである。
心を正しい方向に向け変えること。方向転換の意。偶像 (ぐうぞう)
神から離れ、神を礼拝しない心は、いわば神に背を向けた状態にある。聖書はそれを罪、と言っている。そこから色々な悪い事、問題、惨めな状態という「もろもろの具体的な罪」が生まれてくる。「根本的な神に対する罪」を認め、方向を変えて神に目を向け、神を信じる(信頼する)人になることが根本的な真の悔い改めである。
神様に対する『根本的な悔い改め』の後、人は神様の助けを受けて、もろもろの罪という間違ったいろいろな生き方に気付き、本来の正しい生き方に一つ一つ方向転換ができる。それが『クリスチャンとしての悔い改め』である。
天と地を創造し、私たちを完全に救ってくださる真の神以外の人間が造り出した神々の事。
ある時は人間が祭り上げられ、ある時は獣や大木、山などありとあらゆるものが礼拝の対象になる。金、銀、石、木などの材料でその形が作り上げられる場合が多い。真の神はこのような偽りや迷信、欲望中心の礼拝や儀式を偶像礼拝として聖書の中ではっきりと禁じている(例:モーセの十戒など)。
再臨
(さいりん)
イエス・キリストが再び来られること。三位一体 (さんみいったい)
最初の来臨(クリスマス)は、私たちの罪を十字架で負うために来られた。しかし、2度目(再臨)は、救いの完成・神の国の実現のために来られる。今はそれまでの「恵みの時」。神は一人でも悔い改めるのを持っておられる。最初の来臨も再臨も聖書に詳しく預言されており、最初の来臨は完全に実現した。
神は唯一。すなわち人間を造った神は存在するが、人間が造った神は存在しない。聖書はその真の神が、父なる神・子なる神(イエス・キリスト)・聖霊(御霊)なる神であることを示している。このことを三位一体と表現している。主 (しゅ)
父なる神 …支配の中心…天におられる
子なる神 …救いの中心…天の父なる神の右におられる
聖霊なる神…助けの中心…クリスチャンのうちにおられる
聖書は、三位一体の神のそれぞれの働きがあって初めて、私たちは存在し、救われ、新しい人生に入り、祈り、よい実を結ぶことができるのだと教えている。
主人のこと。聖書では天と地の究極の主人として「神」を指す。祝福 (しゅくふく)
イエス様を「主」と告白することは、第一にイエス様を神である救い主と告白することであり、第二に自分がイエスの「しもべ」であることを証しすることである。クリスチャンには人生の主人がいるゆえに、はっきりとした生きる目的がある。しかし、この主人を否定するなら、人はどこにも生きる目的を見出すことはできない。
神が私たちの真の幸い・真の喜びのために特別な配慮をして下さること。救い (すくい)
必要な物が与えられるといった物質的なことの場合や、精神的・霊的・人格的な成長、訓練、また心の平安・喜びといった目にはみえないものの場合もある。
子供の願うことがすべて最善と言えるのではないので、親は愛のゆえに子供の願う通りのことをしないことがある。それと同様、人の願い通りになることだけが祝福なのではない。神様は愛をもって私たちに最善の訓練と導き、必要を与えてくださる。このような神様の私たちへの配慮こそ、何よりの祝福である。
人間の最も根本的な問題である「罪」と、最も根本的な危険である「罪の罰(永遠の裁き・死)」から助け出されること。それはまた、罪人の私たちが「義」と認められ、「永遠の命」を与えられることを意味している。
罪や死が事実であり、現実的なものであるゆえに、神様はイエス様の十字架と言う事実、現実によって私たちに救いの道を用意してくださった。イエス様の救いは教えではなく、現実的な事実である。
罪
(つみ)
罪とは神に背を向け、神の律法(ことば)に逆らうこと。また、聖書の原語であるギリシャ語ではもともとの意味は「的(目的)を外す」こと。天使 (てんし)
良いことをしていても的(目的)を知らず、的をはずしているなら罪になる。例えば、掃除をすることは良いことだが勉強する時間に掃除をすることは罪である。同様にまじめに生きていることは良いことだが、神様を知らず、生きている目的(的)を知らずに的をはずして生きていることは罪といえる。
→負目、 咎
神に仕えて働く超自然的・霊的存在。天使はみな一様ではなく、人間同様それぞれ人格を持っている。神の命令に従って具体的な仕事を実行している。咎 (とが)
しかし、あくまでも神様から委ねられて神様の働きをしているのであり、天使を礼拝したり、守護天使のようにお守りとすることは禁じられている。悪魔とは人間や他の天使から神のように扱われることを願って堕落した天使である。
咎…してはならないことをすること。とりなし (とりなし)
「咎」も「負目」も共に神の前に罪である。
→罪、 負目
神と人との間に立ち、仲介者となって働く愛の働き。
イエスは天の父なる神の右にいて、私たちの「罪の赦しのとりなし」をしておられ、聖霊なる神はクリスチャンの内にいて弱い私たちため、「祈りのとりなし」をして下さっている。
同様にクリスチャンは、祈りにより、また具体的な行いや伝道・証しによって、他の人々の救い・本当の幸いのため神に「とりなす」ことができる。
ハレルヤ
(ハレルヤ)
「主を賛美せよ」という意味のヘブル語。他の人の賛美やメッセージ(説教)・証しなどを聞き、神に心の感謝と喜びを表したいときのこの言葉を使うことがある。平安 (へいあん)
神にすべてを委ねている人の、穏やかな心の状態を表す言葉。奉仕 (ほうし)
祈りによって自分の願い事を神に知って頂いた人は、神が最善の答えを下さると確信しているので、周りに起こってくる出来事に悩まされない。神がすべてのことを益として下さるという聖書のすばらしい真理を知り、信じている人は、目の前の状況に左右されず落ち着いて「平安」に希望を持って生きることができる。
神様の仕事、働きをすること。
教会は神の働きをする場として、神によってつくられた。クリスチャンはその教会において神に仕える。例えば、各種のイエス様の福音を伝えるための集会の準備(案内作成・配布・招待・会場準備・掃除等)、実施(司会・奏楽・案内受付係・託児・接待・カウンセリング等)、日曜学校、教会事務(会計・書記等)などいずれも欠かすことのできない神の働き、奉仕である。
交わり
(まじわり)
教会のクリスチャンたちが一緒に過ごすことを「交わり」という。導き (みちびき)
その内容はいろいろで、例えば、一緒に祈ること・聖書を学ぶこと・賛美すること・集会後感想を話し合ったり自己紹介をしあうこと、食事を共にしたり遊んだりすることなども含まれる。
神が私たちに進むべき道を示して下さること。恵み (めぐみ)
神は私たちの人生に、また実生活に具体的な関心を持っておられる。それ故、私たちは祈りと聖書を通して、どの道をどのように歩んだら良いのかを神から教えて頂くことができる。
聖書の約束D「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
イエス・キリストを通して神から受けるすべての祝福のこと。『受ける価値のない者が、受けるはずのない尊いものを受ける』こと。
例えば、罪人に対する神のはかり知れない愛、イエス・キリストによる救い、キリストによって与えられる力など。「恵み」は一方的に与えられるもので、何かの働きによって与えられる「報酬」とは違う。
受けるはずのないものを、受けること。
→憐れみ
委ねる
(ゆだねる)
自分の道・重荷・思い煩いなどを神に任せ、神に信頼すること。預言・予言 (よげん)
神は誰よりも私たちを愛し、私たちのために最善をなして下さる方であるから、祈って結果は神に委ねる。私たちはどんなに思い煩って心配しても、思い煩いや心配からは何も良いものを得ることはできない。私たちにとって大切なことは、今、自分に任されていることに対し、最善の努力を傾けることである。
『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦(すべきこと)はその日その日に、十分あります。』(聖書)
預言は神の思い・意志・計画等について、神の言葉を預けられ、人々に告げること。
従って、預言は単に未来の出来事についてだけではなく、その時代の人々に対する忠告なども含む。同じ未来であっても、「予言」は預言の内の未来についての予測を言い、未来についての確実な神の約束については「預言」と言う。
旧約聖書の預言の中心はDキリストの生涯と死と復活による私たちの神による救いを予告し約束することであった。そしてこれは予言ではなく預言である。
律法
(りっぽう)
神の定め、ルール。また、人間の使命、あるべき姿など神様の私たちへの求め。
最も有名なものに「十戒」がある。そこには、私たちの神と人とに対するあるべき姿や姿勢、することができる使命や義務が要約されている。
新約聖書では、モーセ五書全体(モーセが書いた五つの書)、時には旧約聖書全体を指して用いられることもある。