灯心
とは、ハンディをもつ子と家族を支える新聞です
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彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない (マタイ 12:20)
| ここに掲載された証は灯心のごく一部ですので、もっと詳しくお読みになりたい方は、 下記の項目を記入して、送信のボタンを押してもらえば、 無料でお送りいたしますので、ぜひ、実際の新聞を手に取りお読みください。 |
長野バプテスト教会のホームページもぜひみてください。
救いはすばらしい

--最愛の息子を--
成人式を迎えて思うこと
--発達障害の子の子育てを通して--
神様が私たちにSを与えてくださった意味
--自閉症の子どもをお持ちのお母様のお証し--
新しい生命を通して教えられたこと
--出産に教えられた恵みのお証し--
脱出の道を備えてくださる主
--交通事故にあって。。。--
主と共に歩んで
--視覚障害の賛美歌手のお証し--
「神の作品」としての私
--心臓の弱さの中で知った恵みのお証し--
神の道
--ウィリアムス症候群の息子さんをお持ちのお母様のお証し--
Sの救い
--自閉症の息子さんをお持ちのお母様のお証し--
食卓の下の小犬でも
--脳性麻痺の牧師のお証し--
ある足なえの一歩
--足の成長障害を通して神様に導かれた牧師のお証し--
忘れてはならないこと
--脳性小児麻痺の娘さんを育てられた牧師のお証し--
小さな宣教師
--白血病で娘さんを亡くされた牧師のお証し--
期待したこととは違っても…
--二人のダウン症のお子さんをおもちのご夫妻の体験談--
弱さの中に示されるキリストの恵み
--吃音のある牧師の証し--
ありのまま受け入れて
--脳性麻痺をお持ちの伝道者からのメッセージ--
アトピー性皮膚炎の娘を通して教えられたこと
--M ・ K 様--
涙をご存じの主と共に
--不妊の宣教師夫人の証し--
神の道は完全
--娘さんを癌で亡くされた宣教師夫人の体験談--
イエス様にお会いしてから
--聴覚障害をお持ちの牧師の体験談--
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長野バプテスト教会のホームページへ 濱谷 勉師 (瀬戸聖書バプテスト教会 牧師)
誕生日のお祝い
ここ2年続けて、長男栄の誕生会をしました。亡くなった子どもの誕生会をすることは普通考えられないことです。でも、栄は私たちの心の中に生きており、天の住まいで生きていますので、誕生会をすることにしたのです。小さな誕生ケーキを前にしながら「栄君、誕生日おめでとう」と涙しながら祝福したのです。亡くなって3年が過ぎ、ようやくそのようなことが出来るようになりました。そして、文章に表すことが出来るようになってきたのです。立ち上がるために時間がかかるものです。
米国への道
彼は中学生時代まで、友達に恵まれ、サッカー大好き少年で活発な子どもでした。一方、自分の信仰や進路のことで悩んでいたようです。あまり親に話すことはありませんでした。高校受験を目前にして、「アメリカに行きたい」と言い出したのです。留学のために何をしてやれるというのでしょうか。親の経済力の問題がありました。彼の英語力の問題もありました。知り合いもいません。あきらめるしかない状態でした。そんな中、知り合いの宣教師の紹介で、家族待遇で引き受けてくださる牧師夫妻が現れたのです。小規模ながら、クリスチャンスクールを持っていてその高校で学ぶ道が開かれたのです。まことに大きな神様からのプレゼントでした。
献身と日本宣教の重荷
これまでの過去を捨てて「絶対、牧師にはならないよ」と言い捨てて、海を渡っていった息子。半年ほどしたある日、電話がかかってきて「お父さん、僕、献身したよ」と言ってきた時の驚き。主は彼の心を変えてくださったのです。高校を卒業し、神学校に入学。そこで知り合ったレイチェル姉と結婚することになりました。彼女は日本に関心を抱いている人でした。あるカンファレンスで説教者は「米国にもっと多くの働き人が必要だ」と訴えました。その時、長男の心に迫るものがあったといいます。「こんなに沢山のクリスチャンのいる米国でもっと働き人が必要だというなら、日本はどうなるのか」と。彼の心に日本宣教の重荷が与えられた瞬間でした。
病気の発症
神学校を卒業し、結婚して間もない妻レイチェルを伴って日本にやってきました。米国留学でお世話してくださった宣教師の教会留守を1年間するためでした。日本語が分からず、生活習慣の分からぬレイチェルでしたが、教会の人たちはとても良くしてくださり、恵まれた奉仕をさせて頂いたのです。奉仕期間中、長男高基が誕生しました。奉仕期間が完了し、帰米することになりました。少し前からしばしば頭痛がするということでしたので、帰米の前に念のために検査を受けることを勧めました。レントゲン検査の結果を本人たちと私たち親も付き添って聞きに行きました。フィルムに白い影が映っていました。「腫瘍です。良性か悪性か分かりませんので再検査しましょう。」と医師。良性であることを祈りました。結果は悪性の脳腫瘍だったのです。「先生、完治しますか?」と私。「完治しません。すぐ手術しましょう。」と非情な宣告。いろんな思いが駆けめぐりました。いよいよこれからと言う時に、2人の思いはどんなであったでしょうか。
闘病生活の中の恵み
しばらく親元で治療に励みました。しかし、レイチェルの言葉の問題などもあり、米国に帰って治療を継続するのがよいと判断しました。最初はラスベガスのレイチェルの両親の近くで生活しました。トレーラーハウスの生活でした。後半はサンディエゴの親戚のもとに身を寄せて治療に励みました。主は良くしてくださいました。保険の利かない米国の治療費の高さは聞いていたもののびっくりしました。ある時電話がかかってきました。「お父さん、手術入院ですごいお金がかかりそうだ」と。「いくらぐらいなの?」「数百万円…」祈るしかありませんでした。なんと、不思議な形で公的支援の道が開かれたのです。また、すばらしいことに治療中にもかかわらず、第2子(次男賢人)が与えられたのです。2人はある時、主の前に約束したと言います。「もうこれからは『どうして?』と主に問うことは止めよう」と。回復の兆しを感じながら希望を持って療養していました。お世話になったペンシルバニヤの教会において、宣教師としての按手の恵みにも与りました。
家族との再会
3度目の手術も成功し、「ここしばらく心配ないでしょう」との診断でした。安心しました。しかし、しばらくしてMRIの検査の結果に衝撃が走りました。再発でした。そして、もう治療の選択肢が無いという話でした。彼は覚悟したのでしょう。「日本に帰って、みんなに会いたい」と電話がありました。「それは無理だから、こちらから行くよ」と返事しました。2002年7月末、両親、兄弟たちがサンディエゴに集合しました。言葉が発しづらくなり、苦しい中にも会話が出来、食事やドライブなど外出も出来ました。2人の幼子のことや、翌年決まっていた全国青年キャンプ講師奉仕のこと(これは、2人にとって大きな励ましでした)もあって、本人も私たちも希望を主につないでいたのです。この地上での別れになると思わず、家内をひとりおいて、ほかの家族は日本に帰ってきたのです。
最後の入院
家族が日本に帰った直後から長男の容態が悪くなり、入院することになりました。家内がレイチェルと共に付き添いました。抗ガン剤治療を試みるも効果はありませんでした。英語も日本語も出てこない状況の中で、ある日突然、少しの時間、言葉が自由に話せるようになったのです。家内と息子は喜びにあふれて主を賛美しました。苦しい場面の続く中での恵みのひとときでした。息子の口から、つぶやきの言葉でなく、喜びの言葉を聞くことができたことは限りない慰めです。「お母さん、救いはすばらしいね」3週間ほどの入院でした。8月20日、静かに天に凱旋しました。28才の若さでした。
喪失感と慰め
子どもを先に失うことの悲しみ、喪失感は、言葉になりません。家内は今も完全には立ち直っていません。確かに再会の希望は大きくあるのですが、喪失感は簡単に無くなりません。何故、主がかくも早くお取りになったのか分かりません。ただ、分かることは、主は信じる者に一番よいことをなさると言うこと、息子は主に特別に愛されていたと言うことです。多くの人に祈られるすばらしさを味わいました。御言葉の迫り来る力を知りました。天国が近くなりました。最後まで、信仰に生き抜いた息子を誇りに思います。救いを喜び、福音を伝えようとした息子を誇りに思います。近い将来、彼に再会できることを待望します。また、彼の果たせなかった志を果たしてくれる働き人が起こされるように祈ります。最後に、彼が最後の説教のテキストとして選んだ聖句を記します。
「とこしえにいます神は、なんじの住みかなり。なんじの下には永遠の腕ありて、なんじを支えたもう。」 (申命記33:27)
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長野バプテスト教会のホームページへ 黒田ちえ子姉 (単立荒川沖教会)
今回、三番目の娘が成人式を迎える事になり、教会で祝って頂き嬉しく思っています。娘は産まれた時から脳に障害を負い、ここに至るまでにも、沢山の神様の守りがあった事を再び思い起こして感謝しています。娘がお腹にいる時にはつわりが強く、食事を受け入れる事が出来なくなり、上の二人の子の世話も充分に出来なくなったのでした。
五ヶ月に入った頃、頭がとても大きいという事が解りチェックを受けました。食事制限をしても子供はどんどん大きくなり、胸にもつっかえる様になって益々体に負担が強くかかる様になってきました。仕事も辛く思える様になってきても、責任上辞めることも出来ず、体に負担を感じながらも続けていました。 私の両親はすでにいなかったので実家に帰って心身を休める事も出来ず、夫は出張で留守が多かったので頼る事も出来ず、思うようにならない体のしんどさを覚えつつ、上の二人の子の世話をしながら夫の帰りを心待ちにしていたことでした。
臨月を迎えようとする時、夫は長期出張のため、海外へ行ってしまいました。妊娠中で不安定になっている上に、夫のいない不安、淋しさがストレスになり、心理状態がおかしくなり神経が病んでしまいました。私の精神状態は極限に達していましたが、そのような中にイエス様がいつもいて下さり、私が壊れてしまわない様に支えて下さいました。
「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。」(詩篇102篇17節)
このような孤独の中で、神様によって私は練られていきました。誰も頼る人がいない、自分の体さえ思う様にはいかない。神以外頼る人は誰もいないという思いを、強く感じさせられたのでした。人間に頼る事をせず、神に頼り従っていく事。すなわち肉の父から霊の父へと親替えをしていく必要を神様が教えて下さったのでした。
このような自立が私には必要であり、この頃からより一層、出来るだけ人に頼る事をせず、神により頼んでいこうという強い思いが与えられ、自立の道を歩み始める事になりました。いよいよ産み月に入り、突然、破水が起こりました。初めての経験だったのでどうしたら良いのかパニックになってしまいました。とりあえず処置をしてから病院に連絡をし、医者の指示を受けました。「感染症が怖いので、すぐ来るように。」と言われ、急いで病院へ向かいました。痛みも来ているのでお産が始まっているとの診断でした。
しかし、どんどん陣痛が強くなってもなかなか子供が降りて来ないので、看護婦さんが上に乗って押したり、色々やってみても状況は変わらず、時間ばかりたっていく中で私の体は衰弱していき、医者もあせり始めました。強い陣痛が定期的に来て、出血している状態でしたが、すぐレントゲン室まで行き写真を撮らされたのでした。それは悲惨な状態でした。途中でやめる訳にも行かずに、ただ流れに従っていくしかありませんでした。レントゲンの結果、何とかいけるだろうとの判断の元に分娩室に戻されました。
台の上で、私は必死で祈りました。「私はどうなっても良いですから、この子を助けて下さい。」と。長時間にわたっての戦いでしたが、その間ずっと、「神様、助けて下さい。」と叫び続けていました。最後の力を振り絞って、やっと生命の誕生を迎える事ができました。「神様、ありがとうございます。」と祈った後、安堵の気持ちと共に私の体はぼろぼろで消え行くばかりでした。産まれてきたのは、3878グラムの大きな女の子でした。本当にただただ恵みでしかなかった娘の出産に、名前を真理恵と名付けました。真理恵は黄だんが強く、退院は少し延ばされました。お乳を吸う力が弱く、難産の為にすっかり体力を消耗してしまった私には、長時間お乳を飲ませている元気がなく、本当にしんどい事でした。
家に帰ってからも、お乳の吸い付きが良くないので母乳もだんだん出なくなり、搾乳して哺乳瓶で飲ませることにし、朝昼晩、お乳絞りに精を出して一生懸命飲ませようと努力しましたが、残すことが多かったのでした。あまり泣くこともせず、寝てばかりいました。
数ヶ月経ってもあまり表情に変化がなく、足のつっぱりも弱いように感じました。色々な機能に遅れがあるので内心おかしいなと思うようになり、当時、養護教員をしていた教会の姉妹の勧めで病院に行き、検査を受け、その結果、左脳に萎縮が残っているという診断を受けました。
そして、その為に精神遅延があるということでした。私たちは頭が真っ白になってしまい、このことをどのように受け止めたら良いのか分かりませんでした。先生の話では、「萎縮は治らないが、他の細胞が駄目になった細胞の替わりをしてくれる可能性はあるので、伸ばす努力が必要です。」とアドバイスを頂きました。その事が希望の言葉となり、主人と私は、「この子の為に私たちは何をしたら良いでしょうか?」と祈りました。先生は治らないと言ったけれど、神様にはできない事は何一つ無いはずだから、癒されるように祈ろうと思いました。
そして、教会の人達にも祈って頂きました。祈りの中で、脳に刺激を与える環境を見つけてあげるように導かれ、早速、児童相談所に行きました。そこで言われた事は、障害福祉センターの療育施設で子供を遊ばせながら機能を伸ばしていったらどうかということでした。
そして、そこに行って説明を聞いているうちに、近くに障害児を受け入れている保育園があるということを聞き、訪ねて見ることにしました。一人の先生が丁寧にお話を聞いて下さり、ハンディのある子供に対する深い思いがあることを感じ、この保育園で預かって欲しいと強く感じてお願いしたところ、「預かりたいが、もうすでに今年の申し込みが済んでいて難しいかもしれないが、一応役所に希望を出して見て下さい。」と言われ、とりあえず手続きを済ませました。その時はすでに二月になっていたので、無理な事だと思い、がっかりして帰ったのを覚えています。
三月に入り、役所から一つの手紙が届きました。中を見ると入所通知の用紙でした。一瞬、目を疑いました。とても不可能な事と諦めていたので、信じられませんでした。神様が「どんな困難と思われるような事があっても、諦めることなく希望をもって生きなさい。」と道を開いて下さった出来事でした。その事は私たちにとって大きな教訓となり、励ましとなりました。
そして、この保育園での生活は、本当に良い機能訓練の場となりました。健常の子供達と共に、泥遊びを中心に個々にふさわしい手作りの遊びをたくさん取り入れて楽しく1日を過ごさせて頂きました。保母も子供達も上から下まで紅茶色になって良く遊びました。自然の中を歩く事も沢山しました。歌を歌いながら季節の木の実を口にして何キロも歩きました。その時に歌った何曲かは、今でも時々口にして歌っています。(メロディーは時々合っていますが、言葉は真理恵語です)中でも体操は、手足の指先を良く使い、脳に刺激が行くような動きを朝晩毎日してくれました。食事も自然食を取り入れて、本当に子供達の事を良く考えてくれる保育園でした。
健常児達は、障害のある子供達に対しても自然体で接して下さり、日ごろからとても良く面倒を見てくれるので、様々な行事には感動的な場面が沢山あり、時々涙した事もありました。熱心なだけに関わりも多く、私達がクリスチャンである事を打ち出す必要が色々な機会にありました。日曜日の行事等、お酒の席、冠婚葬祭等、その他、真理恵にとっては良い場所であっても、私達にとっては戦いの場所でもありました。
初めにクリスチャンである事を表明していたので、礼拝は守るという意思を通させて頂き、どうしてもの時は午後に参加したりしました。父母会の時には、夜が多いのでお酒の席になったりすることもあり、そういう場では主人はお酒をきちんと断り、クリスチャンとしての証しの場として話をしていました。中には数名、真剣に話を聞いてくれる人達もいました。そういった積み重ねが形となり、周りからクリスチャンである事を認めて頂き、色々な事に理解を示して下さる事になったのでした。夫も私も出来るところで一生懸命、園の為に尽くす努力をしました。
慣れ親しんだ保育園を去ることになり、第二の母となって親身に育てて下さった先生ともお別れをする事になりました。園での生活を通して体もすっかり丈夫になり、風邪もひかず、熱もめったに出さなくなりました。真理恵の発達は知的にはとても遅く、身体的には二十歳でも知的にはまだ二歳〜三歳位に思えますが喘息も治ってしまいました。
そして、神経が一日に一ミリ伸びると言われているよりももっと遅い速度で成長しているかのように感じられますが、けれども着実に成長しているのは確実です。とにかく動くことが好きで、家ではじっとしている事がなく、あらゆる所に目を光らせ、次から次へといたずらが始まるのです。やって欲しくない事をやる事が多いので、時々ストレスを感じてしまいます。それらが続くと重荷となり、どーっと落ち込んでしまうという事を繰り返していました。
そのような時に必ず引き出されて来る心の問題がありました。それは妊娠中に与えられた心理状態によって、真理恵がこのような状態で産まれなければならなかったものと信じ、夫に対して責める気持ちがあったのでした。しかし、そのような気持ちを持ち続ける事は私にとっても辛い事でしたが、どうしてもそこから抜け出す事ができずに、重い気持ちを引きずっていました。ある時、聖書を開いていると一つの御言葉が目に入ってきました。それは、
ヨハネ9章2節〜3節、『「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」』
という御言葉でした。その時、私はずっと抱えていた思いから解き放たれたような気がしました。そして夫に対する思いを悔い改め、ありのままを受け入れて育てていこうと決心しました。その後、真理恵は養護学校に行き、そこで十二年間生活をしました。その間、様々な事がありました。何度も行方不明となったり、車にぶつかったり、高い所から落ちたり、焼けどで大怪我をしたり(痛みが鈍いために気が付いたときには重傷になっていることがあった)、ガラスを割って怪我をしたり、数えたらきりがないほど危険な目にもあいましたが、その度に神様の御手に守られている事をひしひしと感じるのでした。
そのような守りの中で、真理絵はすくすくと育っていきました。笑顔で生き生きと輝いています。真理恵に関わって下さった先生や指導員の方達からは、「真理恵ちゃんのかわいい笑顔、笑い声、ことば、すねっぷり、照れっぷり、そのすべてが元気のもとです。」と言われ、「周りをいつも明るくしてくれる」と言って温かく見守って下さいました。そういった事も神様の栄光を現す事なのかもしれないと思い、癒されて欲しいという願いと障害を持ったままの娘の存在を肯定する思いが二分しているような状態ですが、後者の思いが強くなってきているように思います。そういう訳で沢山の恵みを受けながら育ってきた二十年、神様が共にいて下さり、いつも守っていて下さっている事を思い、心から感謝しています。
現在は近くの福祉センターにお世話になっていますが、これからが長い道程の始まりとなります。現在の状況は決して満足のいくものではなく、かえって不安や戸惑いばかりを感じることが多く、果たしてこのような環境が良いものかどうか、いつも頭から離れません。障害者にとって、どうしたら一番良いのだろうかと思案したり、それらを行動に移しても何ら変わることがなく、思いを訴えても一方的で終わってしまう事が多く、気落ちしていくばかりです。
真理恵にもストレスが加わり、それらを家で発散しますので、対応に疲れ果ててしまいます。障害をもっている人達は、誰かの助けがなくては生活していけません。その助けは誰でも良いのではなくハンディキャップを持った者を一人の人格をもった者として接し、真実の愛情を注ぐことの出来る人達であって欲しいと思います。
願っている事は、クリスチャンの人達が主体となった場所で過ごせたらといつも思っています。また、形に出来たら良いなと思う気持ちもありますが、なかなか具体的にする事ができません。人はそれぞれ違う種を持ち、やがてその花を咲かせるために産まれて来るわけですから、障害者も素晴らしい花を咲かせ、自分らしく生き生きと輝いて生きていける場所が与えられる事を、私だけでなく多くの人がそらんじていると思います。
そのために、自分に何が出来るのか、何をしてやれるのか、祈っていかなければならないと思っています。一緒に祈って下さる方、重荷を負って下さる方がいらっしゃるなら感謝です。今後も娘の成長を温かく見守って下さいますようよろしくお願い致します。
Sは、我が家の三人兄弟の末っ子として、生まれました。現在、小学一年生の男の子です。Sが 三歳を過ぎても言葉が出ず、多動の兆候が見え始めた頃、市の早期療育施設に母子通園すること になりました。当時、上の子供たちが、小学校の低学年と幼稚園であったことから、時間の制約 もあり、バタバタと過ごしていました。また、同時期に主人が仕事の上で大きな試練の中にあり、 経済的にも苦しく、正直なところ、私はSの障害の心配よりも、こちらの問題の方が不安の大部 分を占めているような状態でした。恥ずかしいことですが、Sにとって必要なこと(訓練など)を 選択する時も、いかにお金がかからないかと言うことで判断していました。また、主人はSの障 害が受け入れられず、療育施設に通うことに大反対で、夫婦の間でも口論が絶えませんでした。 すでに、救われていた私ですが、この時は、神様のことなどすっかり忘れて、「経済的に満たさ れていれば・・・」とか「主人がもっと変わってくれたら・・・」と常に周囲の人や状況に原因 があると恨んでいました。
しかし、障害を持つ子とその親たちのかかわりの中で、子供の障害が原因で離婚してしまった 家庭、反対に夫婦が一致して深い愛情を注ぎながら、子供と接しておられる家庭、と様々な家庭 を垣間見る機会が与えられ、私自身深く考えさせられました。それから私はSの障害のことでは なく、主人のことを祈るようになりました。
今まで、自分のことは棚に上げて主人のことばかり責めていました。でも私はSの障害が軽く なるとか消えてしまうことよりも、主人と一致して歩んで行くことの方が大きな望みでした。相 変わらず、主人は仕事の上で試練の中にありましたが、少しづつSのことを理解しようと努めて いることがわかりました。後に、仕事を休んで、Sの受診に来てくれました。そこで、「自閉症」 と診断されました。
その後、集団生活の必要性から公立の保育所に通うことになりました。その頃から、自閉症特 有の問題行動が頻発しはじめました。常に手を握り締めておかないと一瞬のうちに行方不明にな ります。本人は全く不安でないので泣きませんし親を探すこともしません。警察の方に捜して頂 いたこともあります。
また、物に対してのこだわりが非常に強く、気持ちの切り替えがなかなかできません。一つの ことをやめさせて次の事に移るのに大パニックで大暴れをします。本人も親もひどく疲れます。 でも、このような場面で周囲の人から日ごろのしつけの悪さなど親への批判を口にされたりしま す。自閉症は脳の障害で、認知する力が非常に弱いか無に等しいといわれています。しかし、現 状は、親のしつけや家庭環境に原因があるように誤解されることが多々あるようです。
又、知的能力においても、かなりアンバランスで、例えば、じゃんけんは難しくて出来ないの に、文字(漢字を含めて)はすらすら読めるといった事がありますが、どうしても、秀でた部分が めだって、できないことを怠けているとかわがままと捕らえられてしまうことも、よくあります。 冗談や嫌味がわからず、言葉をそのままうけとめるので、自己否定がひどかったり、誤解を受け ていじめの対象になることもあります。
ところで、現在のSは、日々、問題と闘いながらも、思いをはるかに超えた成長を実感してい ます。Sが、もしいなければ、私はひたすら自分勝手な道を進み、気がついた時には、最も大切 なものを失い、途方に暮れていたと思います。家族をつなぎとめ、家庭の大切さを教えてくれた のはSであり、なによりも私を神様から離れないようにつなぎとめてくれたのもSだったんだなぁ。 と心から感謝しています。現在、私はSと子供礼拝に出ています。Sが神様のことをどのくらい理 解できているかは、まだよくわかりませんが、みこころの時に救いに導かれ、神様の平安のうち に日々歩んで行く事ができるよう、心から願っています。また、私自身、主にあって育児できる 恵みに心から感謝しています。
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主の御告げ−それ は、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望をあたえるためのものだ。」(エレミヤ 29:11節)
長野バプテスト教会のホームページへ ブリガム 啓子 姉
− 主の賜物 −
「主の使いがその女に現れて、彼女に行った。『見よ。あなたは不妊の女で、 子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。』」(士師記 13:3)
「こうしてボアズはルツをめとり、・・・主は彼女をみごもらせたので、彼女 はひとりの男の子を産んだ。」(ルツ記 4:13)
「日が改まって、ハンナはみごもり、男の子を産んだ。」(第1サムエル記 1:20)
毎朝のデボーションで聖書を読んでいた時、何度も読んだ箇所なのに、子供を 産むマノアやルツ、ハンナ、特に彼女達に男の子が与えられたということが心に 残りました。そして、「今年は主が私にも男の子を授けてくださるかもしれない 。」こんな思いが与えられました。それから少しして、妊娠がわかった時の驚き と喜びは、言葉で表現することはできません。結婚8年目、一宮で開拓伝道を始 めて4年目のことでした。
一宮ではたくさんの子供に接する機会が与えられていて、「この子供達に聖書 を教え、主に導くことがみこころであるなら、自分の子供が与えられなくても結 構です。私は、自分の持っている物すべて、時間も主におささげします。」以前 からこのように祈っていました。 実際、結婚8年目にもなると、あきらめの気 持ちも出ていました。けれども時折高まる感情を抑えることができなくて涙する こともありました。接している子供達が小学校の中高学年になると、いろいろな 問題が出てきて、親御さんと話す機会が増えてきました。私なりに聖書から思う こともありましたが、「子供がいないのに何が言える。」というサタンのささや きに、くじけそうになることばかりでした。
喜びの中で妊娠生活が始まりましたが、安定期に入るまでは、思いの他つらい ことの連続でした。つわりがひどくて食事がのどを通らず、5キロやせました。 持病の甲状腺の病気も悪化して、脈拍が130を超え、横になっても休めない日も続 きました。今まで、妊婦さんを見るとうらやましいばかりで身体のつらさを考え たことがなかったことに初めて気がついて恥ずかしい気持ちになりました。 私 は最初から帝王切開と言われていて、予定日の一週間前に産むことになっていま した。手術日が近づくにつれて、パンパンに張るお腹や夜中によく動いている赤 ちゃんを見て、「苦しいのではないか、早く産んだ方がいいのではないか」と漠 然と思っていました。 手術日の2日前には早朝に出血がありましたが、外来で はもうすぐ手術だからと帰されました。次の日には出血と共に陣痛も始まり、結 局手術予定日より1日早く緊急帝王切開がほどこされました。 主が示して下さ っていた通り、男の子でした。部分麻酔だったので、産声を上げる我が子に対面 させてもらった時は、感謝の涙が止まりませんでした。
後で聞いた話によると、手術をした時、羊水も濁って赤ちゃんはお腹の中でぐ ったりしていたそうです。お医者さんは、「お腹の中で苦しいことがあって、そ れが陣痛を起こしたのでしょう。切迫子宮破裂ぎりぎりでした。早く産まれてよ かったです。」とおっしゃいました。ここでも主が働いて下さったと本当に感謝 でした。
−母乳育児について教えられたこと−
生まれて最初の一ヶ月は、術後の回復に時間がかかったことなどから、母乳で 頑張るという気持ちもなく、吸ってくれないとすぐにミルクを与えていました。 その時は、それから、大変な苦労をすることになるとは思ってもみなかったので す。 生後一ヶ月の赤ちゃん訪問で助産婦さんが来て下さった時、健(ケン)を 見るなり、「太りすぎている」と言いました。体重の増えは一日30g程度でいい のに、健は計算すると一日60gも増えていたのです。「もっと頑張って母乳を飲 ませなさい」と言われ、これはいけないと思いましたが、なかなか吸ってくれな いことのじれったさと自分自身の疲れで、ミルクを足すこともなかなかやめられ ませんでした。健はミルクを飲むと、顔がはれぼったくなり、見ただけでミルク 太りとわかりました。「赤ちゃんはプクプクしているものよ」と回りの人に言わ れましたが、何かおかしいと悩み始めていました。 粉ミルクもいくつかのメー カーを試してみましたが、どれも合わないような気がして満足できませんでした 。その頃には、健が授乳のたびに泣くので、授乳が悪夢になっていました。おな かがすいては泣き、あげても泣かれ、一体どうして欲しいのかわからず、夜な夜 な健を抱きながら、神様に助けを求めて涙することが続きました。
そんな時、病院の母乳外来を訪問することを示されました。私が出産した病院 では特別に母乳外来というのがありました。そこでは、ただ、母乳が出るように マッサージをするだけかと思っていたら、とんでもない。これが、主の素晴らし い恵みとなりました。そこの先生は母乳育児の専門家、健を一目見るなり「飲ま せすぎだね」と言いました。目の焦点が合わずにぼーっとしているし、身体もぼ てぼて太りすぎ、「赤ちゃんは飲みたくなくても泣くんだよ」の一言に、私は嫌 がる健に無理やり飲ませようとしていたのかと唖然としました。思えば、子供を あやすということがあまりなく、泣けばミルクと思っていたところがあったこと に気づかされました。
この日から健のダイエットが始まりました。大きくなってしまった胃を我慢さ せるためにおしゃぶりを与えること、とにかく母乳をあげることを厳しく言われ ました。乳房マッサージをしてもらうと、たまっていたお乳が噴水のようにシャ ーシャー出ました。とても冷たい母乳でした。赤ちゃんはこのような冷たい母乳 は嫌がって飲まないのだそうです。 母親の食生活も大切で、脂っこい物や甘い 物を食べると母乳にすぐ出る上、湿疹や目やにの原因になります。おいしい母乳 を出すためには、さっぱりした和食が一番いいのだそうです。「そう言えば」と 思い当たることも多く、普通の育児書からでは学ぶことができないことばかりで 、そこで教えられることすべてが目からうろこでした。
この時から、私の忍耐が試されることにもなりました。健は吸い下手で、おっ ぱいを飲む時激しく頭を振ります。飲みながら寝ることもしょっちゅうで、一回 の授乳に一時間かかりました。そして、一時間後にはおなかがすいてまた泣きま す。こんなことのくり返しで、私は一日中乳首を吸わせているような日が続きま した。 それでも、母乳は十分出ているのだということがわかったのは嬉しいこ とでした。それよりも、健の吸い下手が問題だったのです。病院で、生まれてす ぐ哺乳瓶をあてがわれることで、哺乳瓶の乳首を吸うことが赤ちゃんに記憶され てしまいます。最初に哺乳瓶に慣れてしまうと、吸うのに力のいる母乳は飲まな くなってしまうのです。母親教室で助産婦さんが言っていたことを思い出しまし た。
それから一ヶ月、健の体重も落ち着き始め、湿疹の多かった肌もきれいになっ てきました。二ヶ月経つ頃にはすっかり顔もしまって、体重の増え方も標準にな りました。みちがえるようになってきた我が子を見て、母乳は神様が赤ちゃんの ために母体に備えて下さったことを実感しました。 世間には育児についてのい ろいろな考えがあります。授乳一つを取っても、病院と助産院では全然違うし、 一般に言われていることが必ずしも赤ちゃんにとって一番いいことではないこと もわかってきました。健の場合は吸い方に問題があったのでやむなく色々考える 状況に置かれましたが、授乳に問題のない人は、母乳育児について特に興味を示 さないことが多いようです。夜はミルクとはっきり決めている人(本当は夜中の 方が母乳の出はいいのですが)、「赤ちゃんに合わせて食事をしていたら、自分 が食べたい物も食べられないじゃない」とぴしゃりと言う人もいました。
こうした世の人の様々な考え方は、救いに対する態度にもつながると思います 。自分には問題がないと思っている人や自分の考え方を押し通す人は、神様のご 計画について考えることをしないので、なかなか救いにあずかることができない のです。また、子育てをするにあたって、親がしっかりした確信を持つことが必 要だとはわかっていましたが、子育ては生まれた瞬間から始まっていること、ぼ ーっとしていても毎日子供について選択し、決断していることを痛感しました。
あれから6ヶ月、主の助けによってここまで来ました。吸い下手は完全には治 りませんが、あの時、神様が備えて下さった母乳育児の原点について考える機会 が与えられたことは感謝でした。神様のあわれみによって与えられた健が、主の 恵みの証しとして用いられることを願って、子育てに励む毎日です。
「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」(詩篇68:19)
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長野バプテスト教会のホームページへ 入江 師
『あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。 』(Tコリント 10:13)
振り返ってみるとそれは約4年前の1999年6月18日の交通事故でした。オートバイで家庭教師の生徒を教えに行く途中でした。北海道北広島市、すずらん聖書バプテスト教会で奉仕の機会が与えられ、その働きが祝され順調に守られている中で突然起こりました。意識が戻るとそこは集中治療室でした。はじめは自分がどういう状況にあるのかがはっきりせず、次第に激痛と断片的な事故の状況が脳裏にスライドのように映し出されました。
すぐそばにいる数人の医師はもう危険な状況であるという会話をしており、「もう命が危ないのですか?」という質問に対しても沈黙していることから、いよいよ自分の死がすぐ隣に近づいている事態を突き付けられました。すぐ私の心には激しい動揺が駆け巡りました。「自分がどうしてこんな事故に?」「まだ伝道者としての歩みが始まったばかりなのになぜ?」という思いと共にはっきりと、今日生きるのも死ぬのも神様の御手の中にあることが示されました。
動揺と混乱の後に、聖霊の豊かなあわれみによって、また駆け付けてくださった先生方との祈りと御言葉により、不思議なほどの平安と主のもとへ行く喜びが与えられたことは今でも忘れることができません。
その時、死に対する復活の勝利をおさめられた主イエス・キリストを信ずる者にとって、死は終わりでなく神様の一方的な恵みの御国への玄関であることが鮮明に映し出されました。平安の中で天の御国へ行く決心が与えられ、手術室に向かう途中駆け付けて下さった先生方や親戚の方々に御国での再会の思いを込めて手を振りました。ところが意識が戻ると、そこは集中治療室であり酸素マスクがしてあったので愕然としました。
すぐに執刀医が来られ「わたしは神を信じないけれど、今回のことは医学的にも説明できないものであなたの信じている神様が守ってくださったとしか説明のしようがない」と言われました。症状は大動脈の破裂、右足の脱臼と大腿骨股関節骨とうの骨折でした。普通は大動脈が破裂すれば出血多量で即死する場合がほとんどであるとのことでした。ところが私の場合は大動脈の血管である内膜、中膜、外膜が破裂し左の肺に血が溜まっていたにもかかわらず出血が止まったことは驚くべき恵みでした。約2cmの人工血管置換手術においてもぎりぎりの縫代が与えられました。全ては主の大いなる御業(みわざ)でした。
平安の中で一度死を覚悟した者でしたが、まだ生かされていることで驚きと喜び、感謝が与えられながらも、次第に「いったいどこまで回復できるのか?」「後遺症はどのくらいですむのか?」等という思いが激痛の入院生活の中で押し寄せて来ました。
尚、事故の相手側の方がお見舞いにこられた時には「自分を責めないで下さい。私は何も怒っておりませんし、許しますので、安心してお帰りください。今度ぜひ教会にお越し下さい。」と心から伝えましたが、その夜中には麻酔も効かず激痛の為に一睡もできず、自分の心の中は次第に「なぜ彼は交通ルールを守らず信号無視をしたのか?」「彼がしっかりと運転していれば自分はこんな痛い目に遭わずに済んだのに。」「こんなに痛く苦しいならすっきりと天に召されていた方が楽だったのに。」という思いが強くこみ上げてきました。
自分が相手を赦せていないこと、そして自己中心的な思いが現れてきました。しかし、主イエス・キリストが究極の激痛と自分の死を間近にしながら、しかも嘲りと罵りを受けながら『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカ 23:34)と語られた御言葉の深さとはかり知れない神の愛を改めて教えられました。
約2ヶ月半の痛みと苦しみの伴う入院生活も日々の御言葉と敬愛します皆様の祈りによって支えられました。
無事に退院し、少しずつ普段の生活と教会での働きに戻りつつある時に、また思いがけない試練が襲いました。それは祝福された特別集会の翌日のことでした。朝刊の交通事故による死亡記事を読んで全身が凍りつきました。それは私の事故と同じ相手方が再度事故にあって亡くなられた記事でした。何度もその記事を読み返し問い合わせた結果、同一の人でした。しばらくその出来事を受け入れられず、精神的なショックと苦痛で夜もあまり眠れない日が続きました。
しかし、その言い様もない悲しみの中にあっても主は日々、私を見捨てることなく御言葉と祈りの交わりを通して支えてくださいました。その後の大きな慰めは、教えに行く途中事故にあってしまった家庭教師の生徒が教会へ導かれて救われたことです。当時は高校受験生でありましたがバプテスマへと導かれ、4年後の現在は大学受験の中でも教会生活が支えられていることは大きな励ましです。
今日から事故までの約4年間を振り返ると、それは祝福と試練がいつも交互に縫い合わされているような歩みでした。しかしそのすべては主の御栄光と御力が現されるためであった事を確信しております。特に祝福と恵みは自らの信仰によるものではなく、ただ主御自身のあわれみとむしろ主の栄光が明確に現されるためになされたものであります。
『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』(Tコリント 1:28,29)
そして、この4年間いつも主は試練と共に脱出の道を備えて下さいました。まだ私は伝道者生活が始まったばかりの経験の浅い者です。今後も世の終わりの時代にあって主の栄光の為に熱心に働けば働くほど試練の道を更に通らされることと思いますが、忠実に自分の走るべき行程を走り尽くし天の御国へ凱旋された信仰の先輩方の後に倣う者とされることを祈り願っています。
最後にもう一度、敬愛します多くの先生方ならびに兄弟・姉妹方が深い愛の祈りによってこの者を支えて下さったことを心から感謝申し上げます。
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長野バプテスト教会のホームページへ 荻野眞理子 姉
私は東京で生まれ、都内の盲学校の小中学部で学びました。私が生まれてしばらく経ったある日、母は私の目の異常に気づき都内の大学病院や評判の良い眼科に連れて行き、医師にみせたそうです。一人の医師は「手術をするなら5歳まで待ったほうが良いでしょう」という事でしたが、他の医師は全員「今すぐしなさい」と言われたそうです。母は悩み、祖母は「ハイハイや歩くようになったら危ないよ。」と心配し、生後半年頃に左目だけを手術しました。先天性白内障という診断で手術をし、あくる日には退院という通い手術でした。結果は失敗。私が成長するにつれて、黒目も段々と白く濁り眼圧が上がって、頭痛を伴うようになりました。12歳の時、左目を摘出し、それからは義眼を入れています。左目の手術が失敗した時、右目の手術を勧められたそうですが受けなかったので、明暗を感じる事が出来るので感謝です。歩けるようになると、兄とおいかけっこをして家中を走り回って遊び、「静かにしなさい」とよく母に怒られました。
小学生の頃から、母のお手伝いや厳しい訓練が始まりました。1・2年生の時は雑巾がけできちんと出来ていなかったり、いい加減にしていると、母は見ていて必ずやり直しをさせられました。3・4年生の頃から、食器洗い、又おやつはリンゴや梨などナイフや包丁を使わないと食べられないような物を与えられました。5・6年生になると、ガスを使っての料理や様々な日常訓練へと変わって行きました。同級生たちはほとんど全員そのような事は全て家族がしてくれると話していたので、「何故私だけ・・・」と思いました。不平不満を言いながらしていた時、「お母さんがいなくても困らないようにしているのよ。」という母の言葉を理解する事が出来ませんでした。
中学生の頃から、私の心の中は不安と悩みで一杯になっていきました。まず、将来への不安。特に視覚障害ということで周りの人たちに迷惑をかけるだけなのだから死んだ方が良いのではないか・・・。2つ目は、学校の先生や友達との関係。特にいじめの問題で登校できなくなった事がありました。人前に出て何かを発表したり、意見などを言う事が苦手で、人との距離をおき殻を作ってしまう者でした。3つ目は、通学途上で度々見知らぬ人から「あなたが見えないのは、両親や先祖が悪い事をしたから。あなたの両親が光を見れば見えるようなる。」と言われ、疑問を感じました。
中学3年生の時、学校の帰り道で1枚のチラシを頂きました。家に持って帰り母に見てもらったところ、高校生の伝道集会の案内でした。先の三つの答えが欲しいと思っていましたので、集会に連れて行ってもらいまいた。その時のみ言葉は、 『しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私達に対するご自身の愛を明らかにしておられます。 』(ローマ 5:8) でした。一般的に人は悪いと知りながら嘘をついたり陰口を言ったりしているのだから、罪人って言わなくてもいいのに・・・と思いました。疑問を感じながら、教会へ通っているうちに、イエス・キリストを信じない事が一番の罪であり、不幸である事を知りました。 『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(ローマ 10:10) により、イエス様を信じました。そして、視覚障害という事も 『この人が罪をおかしたのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』(ヨハネ 9:3) から全て神様のご計画の内にあり、この障害をも生かして下さる事を知りました。
高校生の時、初めて両親のもとを離れ大阪の盲学校の音楽科で学び、寄宿舎で生活しました。そして現在の教会に導かれました。兄弟姉妹のお祈りに支えられ、メッセージや交わりの中で信仰生活に必要な事を沢山教えて頂きました。その後、東京に帰り、生活する上でその事は大きな支えとなりました。'95年11月に結婚し、三重県鈴鹿に引越しました。因習の強い土地、生活環境の変化、そして主人の両親と同居という事で不安になりましたが、神様は必要なところで助けと知恵を与えて下さいました。そして、何も分からず足りないこの者に主人の両親や妹家族は愛をもって暖かく接してくれた事も大きな支えとなりました。'99年3月に主人は病気のため天に帰りました。近所にはお寺や神社がいくつかあるので、「教会での葬儀を両親は許してくれるかしら・・・」と心配になり、祈りました。すると、主人の父が「教会の先生に葬儀をおねがいしたから。」と言ってくれました。慰めを受けつつ、牧師や兄弟姉妹に教えて頂きながら準備しました。前夜式・告別式は証しの時となりました。主人の父は、「分骨して納骨する事を考えている。それは、正典が家族と同じ所に入れて欲しいと思っているだろうし、入れて欲しかったと言うと思う。」といったので、私は主人が元気だった頃、葬儀についてよく二人で話し合った事があると言いました。そして、「もし僕が死んだら、両親は家族と同じ所に入れたいと言うだろうから、その時は教会墓地に入れてくれるように」と言われた事を話しました。両親はすぐに理解し、自治会長や頼んでいたお寺にその事を話しに行き、「そうする事が一番いい」と言われたと話してくれました。牧師、教会役員、主人と親しく交わって下さった兄弟姉妹、ともに過ごした家族で納骨する事が出来ました。死後、天国に挙げられ先に帰った主人や友と再会出来る事、永遠の身体に変えられる希望が約束されているので、感謝です。
97年ごろから、賛美をCDにしてはと言う話を頂きました。 多くの方の慰め、励ましとして伝道や証しのために用いられればという思いで、祈りつつ時を待ちました。昨年、道が開かれ録音し今年5月に完成しました。 主人の愛唱賛美や、私が慰め励ましを頂いた曲の中から20曲を選びました (このCDについてはここからOnlineで注文できます)。 厳しくて何度も泣いてやめようとした声楽のレッスンも賛美に変えられた事、母の厳しい訓練やお手伝いがあったので自活できている事、そして母が「お母さんがいなくても困らないようにしているのよ」という意味も実感出来る者になった事は感謝です。又、視覚障害者として造って下さった神様に感謝します。
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主のみ告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 』(エレミヤ 29:11)
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長野バプテスト教会のホームページへ 伊藤淳子 姉
−私の身に起こったできごと・・・肉体の誕生と霊の誕生・・・−
私は、1944年6月にこの世に肉体の生を受けました。父はすでに50歳、母は36歳になっており、第二次世界大戦の敗色の濃い時代でした。栄養不足の母体から生まれた私は、病気がちで、医師からも、「この子は、大人になるまで育たないだろう。」と言われていたそうです。小学校の入学式も、はしかで2週間ほどみんなと遅れて入学しました。慣れない学校生活も疲ればかり感じていたように思います。地下鉄に数駅乗っても息苦しく、ときには鼻血が出たこともありました。少女時代は、友達の親より自分の親が年をとっていて、いつ親が死んでしまうか不安でしたし、病弱な自分自身もいつ死ぬのかおびえていました。病気で学校を休んで家で寝ていると、両親は私によく童話を買ってくれました。テレビのない時代でしたから、おとなしく寝かせておくために買ってくれたのだと思います。そんなこともあって、読書好きの少女になっていって、中学生時代には、大人の小説も読めるようになっていました。生きることは、何の意味があるのか、死ぬことはどういうことなのか、日本の文学だけでなく、外国文学にも捜し求めました。特にキリスト教国の文学では、聖書のことが共通の理解されていることとして、描かれています。聖書を知らない私にはよく意味がわからなくて歯がゆい思いをしました。いつか「聖書」を読もうと思っていました。その頃は、女性が四年制大学へ進むのは普通ではなかったのですが、私はどうしても進
学したくて、両親にお願いして希望の大学へ行かせてもらいました。その大学の建物の正面には、『すべての真実なこと』(ピリピ4:8)とラテン語で刻まれていました。ここで私は「真実なもの」または「真理」をつかめるかも知れないと直感しました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。…」(ガラテヤ2:20)
この聖書の言葉にくぎづけになり、キリストとはどんな方なのかと求め始め、3年生の夏、ついに私はこのイエス・キリストが、私の罪のために十字架にかかって私の代わりに死んでくださった創造主そのお方であり、3日目に復活されて今も生きておられる「いのちの根源」なるお方だとわかったのです。私の捜し求めていた「いのち」それも「永遠のいのち」をお与えになるお方とやっと出会えた喜びと平安で、涙がとめどもなく流れたのを覚えています。このできごとが私に起こった霊の誕生でした。
−病に倒れる−
1990年の夏、私は心不全を起こして倒れました。弱い身体も、心の奥深いところでイエス様と結ばれてからは丈夫になり、結婚して3人の子どもを育てて、それなりに生きてきたのですが、その頃は、少し走ってもハアハアするし、階段の上り下りもやっとの思いであったことも事実なのですが、家族に心配をかけまいと自分で耐えていました。それでも身体の異常がだんだんひどくなり、何か大きな病気が隠れているかも知れないと夫に相談をして、夫の友人の医師の診断を受けた結果、難病の1つである「大動脈炎症候群」(別名;高安病)と診断されました。左側上半身の動脈に炎症があり、だんだんと動脈が細くなっていることがわかりました。そのために、心臓の冠動脈の血管も普通の人の2割以下の細さになって充分な血液が心臓に流れないため、心不全をおこしたのです。心臓のバイパス手術を受けることになり、40日間入院しました。手術後、心臓への血流は良くなりましたが、血管炎の症状を抑えるために、今に至るまで薬を服用しています。激しい運動は出来ませんし、食後しばらくは何も出来ない状態は変わりません。この病気がいつ発病したかと主治医に質問されても、しょっちゅう病気をしていた私としてはいつの発熱が原因なのかさっぱりわからないのでした。おそらく幼少時に発病し、私の身体の血管を徐々に細くしていったのでしょう。病院に入院中に、私と同じ病気の主婦の方もおられ、励ましてくださいました。その方は、結婚してすぐ病名がわかったので、医師から、子どもを産むことはあきらめなさいと言われていたそうです。私はそれを聞いて、難しい病気に罹っていたのも知らず、3人の子どもを生み育てさせてくださって何と感謝かと思いました。そして、3人の子どもの出産は、普通分娩ではなく3回とも帝王切開でした。どうして・・・とその意味がわからないでいましたが、心臓の弱い私の身体をご存知の主が、帝王切開による出産によって母子ともに守ってくださったのだと後になって深く主に感謝したのです。
−私の人生をふりかえって、今思うこと−
「・・・ただ、あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)
病弱だった私の身体のおかげで、イエス様と出会い、神さまの子どもとされた私自身の受けた恵みは、どれほど大きなものか計り知れません。現在私は、1992年に愛知県日進市に「アガペクリニック」を設立したクリスチャン医師である夫とともに、クリニックの三階に住んでいます。(一階は診療部門、二階は17床の病棟)そして、患者さんの心と身体とたましいの健康回復を願って、仕えさせていただいています。クリニックの上に住むことによって、私は患者さんたちに触れあう機会が多く、「聖書の集い」「聖書学校」「ミニコンサート」など、いろいろな集まりを多くのクリスチャンスタッフとともに祈りつつ、持たせていただいています。そこで知りあった方々が私と交わりを求めて来られ、救いを必要としている方には、みことばを持って救いの道を語り、弱ったクリスチャンの方とはともに祈ります。神さまは、私が出歩かなくても私のもとに人を送ってくださっています。何とすばらしい神さまのご計画があったことでしょう。そして私は日々主と交わり、みことばに励まされ、たとえ3級の身体障害者手帳を持っていても、神さまの作品としての自分自身を受け入れ、私のもとに来てくださる方々も神さまのかけがえのない愛の対象として受けとめ交わっていくことが、今の私の使命と思っています。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。・・・」(ヨハネ6:27)のみことばに従って、私の名前が「天に書きしるされている」ことを喜びの土台として、この地上の生涯を歩み続けさせていただきたいと願っています。
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長野バプテスト教会のホームページへ エイミー・ラスクレイン姉
私たちの2番目の子どもジョナサンは、運動面での発達が遅く、とても人懐こく、それは歩き始めても同じでした。1才8ヶ月頃に、彼はウィリアムス症候群ではないかと言われました。当時はウィリアムス症候群のための検査はなかったので、臨床症状から診断されました。そのとき私は3番目の子を妊娠していたのですが、医者は私のほうを向いて、生まれてくる子については心配ないですよ、ウィリアムス症候群が家族内で繰り返し生まれる事はありませんから、と言いました。私たちは、ジョナサンを助けるために、ウィリアムス症候群についての情報を集め始めました。
3番目の子アンドルーの出産には何の問題もありませんでした。病院から彼を連れて帰る日の朝、看護婦が心雑音に気づきました。医者は、心雑音は赤ちゃんにはよくあることで、その問題が何であるかの正確な診断のために、小児心臓専門医を紹介してくれました。心臓専門医は、アンドルーは二つの心室の間に小さな穴が開いているけれど、続けて様子を見ていけば、自然に穴がふさがる事もある、と説明してくれました。心臓の欠陥は珍しくもなければ、警戒を起こさせるようなものでもありませんでした。
アンドルーが生後6週間の頃、ヘルニアがあることが分かりました。医者は、ヘルニアは男の子の赤ちゃんにはよくあることだと私たちに言い、その修復のために外科手術が行われました。その時も、私たちは、これは珍しくもなければ、警戒すべきことでもないと感じていました。
その夏、WSA: ウィリアムス症候群協会 (公式サイト:Williams Syndrome Association) の国際大会が開かれる事を知りました。この大会は、2年に一度開かれるもので、これを逃したらウィリアムス症候群について多くの知識を得る機会は当分ないかもしれませんでした。私たちはその週末3人の子供たちを私の実家に預けて、マサチューセッツ州のボストンでの大会へ、息子ジョナサンのためにできる限りウィリアムス症候群について知ろうと出かけました。
アンドルーの3ヶ月検診のために小児心臓専門医のもとを訪ねた時、私たちは息子ジョナサンのためにWSA大会に行ったことを話しました。心臓専門医は、「私はお宅にウィリアムス症候群の息子さんがいる事を前にお聞きしていましたっけ?」と尋ねました。私たちが、「お伝えしたことはなかったと思います。」と言うと、その医師は、「私はアンドルーの顔を見ながら、『ウィリアムス症候群』かな、と思っていたのです。」と言ったのです。
私たちは唖然としました。ウィリアムス症候群が家族内に繰り返し生まれる事はないと思っていたのに、私たちにはウィリアムス症候群の息子が二人いるなんて!
その検診の直後、私達家族はカリフォルニアへ引っ越して、何人かの新しい医者に診察してもらいました。最初の医者はジョナサンを診て、「ウィリアムス症候群?この子は違いますよ。でも、この赤ちゃんは…」小児科医、心臓専門医、遺伝科医、神経科医に診てもらう中で、ジョナサンはウィリアムス症候群ではなく、アンドルーがウィリアムス症候群だと診断されました。ジョナサンはその後発達が追いついてきて、今年は6年生として元気にやっています。
主はジョナサンはウィリアムス症候群ではなく、アンドルーがそうであることをご存知だったのです。WSA大会が2年に一度だけで、アンドルーが成長するにつれ情報が必要になることもご存知だったのです。アンドルーはその当時臨床的診断を受けるには幼すぎましたので、主は私たちが情報を得るためにジョナサンを用いてくださったのでした。
アンドルーは気難しい赤ん坊で、夜しょっちゅう泣きました。何をやっても彼をなだめすかす事はできませんでした。アンドルーが6ヶ月になる頃には、徐々に発達の遅れが目につくようになってきました。心室の間の穴は言われた通りふさがりましたが、新しい心臓の症状が見つかりました。心臓のすぐ上の大動脈が細くなっていて、そこを通って血液を押し出すために左心室に負荷がかかるのです。この心臓の症状は、ウィリアムス症候群にはよく起こるものでした。アンドルーは1歳の時に心臓カテーテルを行い、2歳半で心臓手術を受けました。彼は3歳になるまでほとんど発語がありませんでした。ところが話し始めると、いきなり2語文、3語文だったのです!
アンドルーが学齢に達してから私は数年間、長女、長男と一緒にアンドルーをホームスクール(自宅で親が勉強を教える事)で教えました。普通のカリキュラムを使って、ただスピードを遅くして教えようとしましたけれど、彼は文字を理解するだけでもとても時間がかかりました。ましてや簡単な算数などは、彼にとってさらに難しかったのです。
さかのぼって8年位前、まだアンドルーが赤ん坊の頃、私たちはクリスチャン特殊教育学校のHidden
Treasure Christian Schoolについて聞いたことがありました。隣人のジョンがクリスチャンで、彼の教会で宣教カンファレンスが行われたのです。その宣教カンファレンスの時、ジョン・ボーン牧師がHidden
Treasureについて語りました。ジョンは翌日ボーン牧師を空港まで送ったのですが、その1時間の間、彼はHidden
Treasureについていろいろなことを聞き、ボーン牧師にアンドルーのことを話したのでした。主はなんとすばらしいことをしてくださる方でしょう。とにかく、そのジョンからの話を通して、私たちはHidden
Treasureと関わりをもち始め、その働きの支援を始めましたが、グリーンビルへ引っ越すことなど思ってもみませんでした。私たちはただ、クリスチャンの特殊教育学校は素晴らしい働きだな、と思っていただけでした。
アンドルーにホームスクールを続ける内に、彼も私もますます挫折感を味わうようになり、私は、彼は進歩していないと感じました。同時に、私は彼のために最良の学校環境を提供してやっているのだろうかと疑問を持ち始めました。夫のデイブは1999年に海軍を退役する事になっていて、その後私たちは海軍によって、どこでもアメリカの好きな町へ引っ越す事ができるようになっていました。デイブは引っ越すならグリーンビルだと決めましたので、アンドルーはHidden
Treasureに行くことができるようになったのです。私たちは去年の夏にグリーンビルへ越してきて、それから1年間というもの、アンドルーはHidden
Treasureで大きな進歩を遂げました。私たちはこの学校と彼の担任のオグル先生に心から感謝しています。
今、アンドルーはとても人懐こい10歳の少年です。彼は、ウィリアムス症候群に典型的な顔立ちと性格をしています。彼はとてもやせていますが、全身状態は良好です。彼は今、2年生の勉強(アメリカでは普通7歳の子供がする勉強)をしています。
アンドルーの人生のすべての段階で、神様に彼の障害を感謝してきました、と書くことができればどんなに嬉しいことでしょう。でも、それは本当ではありません。彼が診断された時信じられませんでしたし、将来の不安がありましたし、完璧でない子供を授かったことへの怒りもあり、神がアンドルーを形づくられた時にご自身がしようとしておられることをちゃんと知っておられたという全般的な信仰も欠けていました。もちろん、私は間違っていましたし、私の罪の性質は残念ながら健在なのです。アンドルーが小さい時、私は、彼が大きくなったらどうなるのだろう、と心配ばかりしていました。私は、主が私に行くべき道を教えようと願っておられるという事実を見失っていたのです。
「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8)
主は一歩一歩私を導いてくださいました。私たちが自分の計画を20年、あるいはそれ以上も詳細に決めてしまうことは、神の望まれていることではありません。神が望んでおられるのは、人生の歩みで一歩一歩主に従うことを追い求めることなのです。「もし私が主と共に歩むなら、次に何をすべきかを主は示してくださる」ということを主は教えてくださいました。創世記24:27のアブラハムのしもべを思い出してください。「主はこの私を…導かれた(英訳:私がいるべき道にいたので、主は私を導いてくださった)」とあります。
主の導きにより頼むことを学ぶ過程において、主はある素晴らしい事を私に示してくださいました。それは、主がある意味で、アンドルーを彼としては完璧に造ってくださった、ということです。今では私は彼の障害についてあまり悩みませんし、アンドルーを家族の大切な一員であり周りをなごませる愉快な息子だと思えるようになっています。私はヨハネ9:2−3
になぞらえて、こう言うことができます。「なぜアンドルーはウィリアムス症候群をもって生まれたのですか。」「神のわざが彼のうちにはっきりと現われるためです。」私はアンドルーを主に感謝しています。
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長野バプテスト教会のホームページへ M・A 姉
「わが助けは、天と地を造られた主からくる。」(詩篇121:2)
原稿の依頼を受けて恵みを思い返して筆を進めている時、息子S(11歳)がイエス様を信じる決心をするという大きな祝福をいただきました。この子が産まれて以来の祈りが聞かれました。7月16日の夕拝の時、Sをかわいがって下さるU姉が隣に座っていて「イエス様を信じる?」とうながしてくださったのでした。
本人から「イエス様を信じる」と聞いたとき「どこまでわかっているのやら?」と不信仰な親は疑問に思ったのですが、以前からSをおぼえて下さっていた神学校のM師よりのメールに「・・人間的な思いの中でいろいろと心配を先取りして悩むものですが、S君はそれを越えて豊かな世界に生きているのですね。神様はそのような彼の世界をも、ご支配になっておられます。またそれを私たちは理解できなくとも、神は十分に承知しておられます。私たちは、自分たちの常識や価値観という固定した思考から踏み出せないものですが、S君はユニークな豊かな世界に、十分に生きることを楽しみ、主に愛されて生きておられることでしょう。・・」この言葉に励まされました。
救いは神様が備えてくださった時でした。素直に前に出て、逃げることなく祈っていただいて、その後も大勢の方が「おめでとう」と挨拶にきてくれた時もニコニコしていました。自閉症で知的障害そして多動の子供にとっては、まさに奇跡の神様のわざです。まさに聖霊が働いたのです。
親なき後のことまた、現在脳波の異常やひきつけの発作を薬で抑えている状態にあるので日々心配ですが、これからどのような将来が待ち受けていても、天国での再会を確信できるのは幸いなことです。
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出生から幼児期− Sが産まれる時はちょうど、教会で婦人会がおこなわれていて、当時の牧師夫人は集会の途中で、出産のために祈りを捧げてくださいました。多くの方の祈りの内に、安産でほとんど問題もなく、主人がへその緒を切りSは誕生しました。
赤ちゃんがいる生活はこんなに大変なものかと、何人も子どものいる婦人を大尊敬する思いでした。ベビーベッドにすやすや寝ていることを想像していましたが、それどころではありません。いつもいつも泣いて、ほ乳瓶でのミルクは受け付けず、抱いて母乳をやるまで泣き続け、オムツを取り替えるにも着替えるにも大泣き。ほとんど24時間抱っこして過ごしていました。人見知りもはげしく、母以外にはあまりなつかない、強烈な赤ちゃんでした。主人はこの頃、視線が合わないなと感じ始めていました。
幸いアパートの前には広い公園があり、早々にデビューしました。同じ位の赤ちゃんをベビーカーに乗せた数組の親子とお友達になり、午前中公園で遊んで、お昼寝が終わってから誰かのお家へ遊びに行くという大移動を楽しんでいました。Sを通じてできた最初のお友達の中には、一緒に教会付属の幼児園に通って今でも毎週日曜学校や、教会のサッカークラブにかよっている子達。昨年お母さんと一緒にバプテスマを受けて教会員になった親子もいます。他のお母さんたちもクリスマス婦人会や、特別集会に来て下さることもありました。
神様に用いられる子ですが、なかなか言葉が出ませんし、コミュニュケーションも他の親子のようにはいかない気がして、1歳半検診で少し心配であることを相談しました。それから、保健婦さんが毎月お電話をくださり、「S君どうですか?」「言葉も出ないし、全然変わりません」といつも成長がみられないことを告げていました。
2歳半のころより、市福祉センターの遊びのグループを経てA学園(障害児通所施設)に通園する事をすすめられました。そのような園の存在すら知らなかった私ですが、A学園へ行けばおしゃべりもできるようになると考えていました。
3歳より教会付属の幼児園とA学園との併用が始まりました。幼児園の集団での活動はほとんど参加できず、一人の先生がつきっきりで献身的に世話をしてくださっていました。絵本をたくさん読んでくださったので絵本が大好きになりました。
一方A学園では食事、着替、トイレの身辺自立、そして、ボールプール、豆プール、室内のブランコにのって前にある箱を蹴る等の感覚統合訓練、言語訓練が行われました。同時に親には障害児であるということが知らされてきました。
もちろん3歳の子どもの将来がすべてわかる人はいないので、医師でさえも「自閉症」とは、はっきり断定しないので、その断定されないわずかな部分に望みをおいて、「アインシュタインだって5歳まで話さなかった」とか「男の子は口が遅いものだ」などそんなことにしがみついたり、「障害児なんだ!」と悲しくて、夜密かに泣いたり苦しいときでした。夫は「いつか直る薬が発明されるよ」といって、別に悲しむ風もあわてる風でもありません。また両親もSの発達の遅れをとやかくとがめなかったことは本当に助かりました。
私は、「人より出来て当たり前。優れている者にこそ価値がある」という愚かな価値観の持ち主でした。胎教と称して、英語歌のテープを聞かせたり、家中に絵カードを貼ったりする教育ママです。ですから人並みでない子どもなんて、考えられなかったわけです。
自閉症をわかりやすく説明しますとこのようなものです。(詳しくはこの証しの最後に記しています)
*脳の障害によって起こった発達障害です。原因は不明。脳の情報処理をする過程に障害があります。認知に、障害があり、周囲の環境や状況の意味を理解することが困難です。70%〜80%は、精神遅滞を伴っています。家族の接し方や養育態度によるものではありません。自分のからに閉じこもって自閉症になるのでもないのですが、世間ではまだ誤解があります。(臨床心理士:安倍陽子氏による)
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小学校生活− 「主によって喜びをなせ、主はあなたの心の願いをかなえられる。
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主はそれをなしとげ、」(詩篇
121:2)
小学校の事を考えるととても不安でした。障害があっても一人っ子だし、地域のお友達と過ごさせたい、学区の普通の小学校にと強い希望がありました。色々な情報を収集し、ドキドキしながら就学時健診に臨みました。校長先生によばれ、就学相談所からの呼び出しがあり、幼児園に相談員が見学に来たり、知能テストをしたり、親は教育委員会の偉そうな人達にかこまれて、やっと地域の学校への就学通知をもらいました。主に感謝しました。入学前に校長先生や担任の先生へ挨拶に行きました。不安は一杯でした。
案の定一日目、担任の先生より電話があり「席に座らないで走り回るので、お友達が押さえたら噛んだんです。まあ、そういう状態です。」かなり落胆しました。学校にしばらく付き添うと先生に申し入れました。この方法がよかったのかどうか今でもよくわかりませんが、先生はいつも母親の目があってやりにくかったでしょう。私の方はどうにか学校生活を送れるようにと必死でした。クラスの子もお母さん方もそして上級生もとてもよくしてくれ、Sと一杯関わってくれました。
しかし、休み時間に上級生のまねをして柵にのぼり(高いところは大の得意なのですが)数メートル下のコンクリートに頭から落ちて額にザックリ11針も縫う事故がおきてしまいました。そんなこともあって、付き添いの私は益々学校から離れられなくなり、学期ごとに校長先生はじめ教育委員会の偉そうな人達にかこまれて、なにやかにや(良いことなんてあるわけないのですから)言われるのも、胃が痛みました。
教育相談所のアドバイスにより2年生の3学期より一人で学校へ行くようになりました。この進歩は嬉しいのですが、学校の様子が見えないだけに、心配は膨らみました。冷蔵庫に貼った御言葉を何度も何度も繰り返す毎日でした。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」 (詩篇
55:2)
3年生になり、新しい担任の先生になりました。自分が受け容れられているか、かわいがられているかということに敏感なSは先生が大好きでした。黒板消しの係も与えられ、嬉しそうに仕事に励んでいました。Sが友達を誘い校門にぶら下がって何人もの友達が道路を通る車を眺めて遊んでいることもありました。中には教会の子供会や、ミニ四駆大会に来たり、イエス様を信じて日曜学校を楽しみにしている子もいます。
4年生になり先生が替わり、勉強も抽象的になり、つまらなくなったSは相手をしてくれる校長先生や保健の先生、音楽の先生のところへ入り浸るようになりました。「運動会の練習に参加しないので当日は出しません」という悲しい通達までうけてしまいました。なかなかうまくいかないものです。
祈り求め、Sを受け止めてくれ、今この時期に必要な訓練や学習ができる所をと心障学級への転学を4年生の2学期にしました。地域の普通学級にこだわっていた私でしたが恐れることなく積極的に校長先生や担任、就学相談に相談し、平安の内に道が開かれました。路線バスに乗っての通学に車好きのSは大喜び、「学校替わってよかった!」と本人の口から聞くこともできました。
通常なら、それで以前の学校のお友達とは切れてしまうのですが、神様は私たちの願いを聞き入れてくださり、週1回は遊びに来てファミコンなどで遊ぶ子達がいたり(ファミコンはコミュニケーションの苦手な子どもも普通の子と同じ土俵で遊ぶことができる文明の利器です)、道で会うと声をかけてくれる近所のお母さんたちも多くいます。地域のお友達と過ごさせてやりたい、地域の理解を大切にしたい、と言う願いを神様は聞いてくださっています。
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現在のS・・教会にとって必要な肢体−「そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり…」
数年前、M師がこの
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現在の私−「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように。」・・こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。
「主は言われる、わたしが、あなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。
それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、
あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。
わたしはあなたがたの祈を聞く。」
(エレミヤ29:11〜12)
自閉症の特性
自閉症の特徴(一般に自閉症の人は下記の特徴の半分はもっています)
自閉症の手引き(神奈川県自閉症児・者親の会連合会)参照
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長野バプテスト教会のホームページへ 湊崎 真砂師(佐世保ローアバプテスト教会牧師)
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。−主の御告げ。−それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ 29:11)
私は貧しい農家の四男として、桜島の裏で生まれました。私は、4歳の時、熱病のためペニシリンの注射を受けた後、両耳が聞こえなくなりました。今も全然聞こえません。私は耳が聞こえないため、1958年4月に鹿児島ろう学校に入学し、家族から離れて12年間、三光学園という施設で育てられました。小学生時代には私が弱いため、よくいじめられ、泣くばかりの私でした。「お母さん、お母さん。」と叫んでも私に会いに来てくれなかったので、とてもつらい日々。中学部2年のとき、「私はなぜ耳が聞こえないのだろうか。」という劣等感に悩み、心がねじれていた私。父と母を恨み、家を出たいと思ったことが何度あったかわかりません。
ある日、「お母さん、僕はなぜ耳が聞こえないのだろうか。僕はかわいそうな男だ。」と言うと、母は泣きながら、「真砂、お前は四歳の時、耳が聞こえなくなったので大変なショックでした。真砂がかわいそうだ。お母さんは真砂のために身代わりになりたかったけど、出来ない。お母さんは真砂と一緒に死のうと思ったことが何度あったかわかりません。でもお父さんのためにそして6人の子供達のために強く生きてきました。」と言いました。私は母の愛情がわかるつもりでしたが、やはり生きるのはつらい。
ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。(詩篇 68:19)
そのような時、私はある先輩の方に連れられて、初めてローア教会の門をくぐりました。私は、教会から頂いたトラクトを読んでも意味がわかりませんでしたが、何度も繰り返して読んでいくうちに十字架の意味がやっとわかりました。主イエスは私を愛し、私の罪のために身代わりとして十字架の上で死んで下さったということがわかりました。私は神様のすばらしい愛に感動して、涙ながらに主イエス様を私の救い主として信じるようになりました。私はイエス様にお会いしてから本当に心が変わりました。私は耳が聞こえないという劣等感から解放されました。今までの苦しみと悩みをすべて益に変えて下さった神のみわざを感謝します。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ 8:28)
私は言葉が口から出なくても、手話を通して神様を賛美することも、福音を宣べ伝えることも出来て、心にあふれる喜びを感謝をこめて多くの人々に証しするようになりました。
「お母さん、かつて僕はなぜ耳が聞こえないのかと不満を言ったことがあります。僕は間違っていました。本当にごめんなさい。ゆるして、ゆるして…イエス様を信じて心が変わりました。今考えてみると、耳は聞こえなくても、神様が私に一番良いことをして下さったのだから、感謝していますよ。」と母に言いました。母は何も言えない喜びで胸がいっぱいになっていました。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Uコリント 5:17)
イエス様によって救われた今はとても幸せです。兄たちや母や父は次々とイエス様を信じて救われたことを、神の豊かなあわれみのゆえに感謝しています。私はローア者同胞に神様のすばらしい愛と福音を伝えたくてたまらなかったので、神様の召命を受けて献身、ABWE宣教師ポール・シュック先生のもとで聖書を学びました。1975年3月に開拓伝道のため佐世保に来て、現在に至っています。そして、佐世保だけでなく、大村、諫早、長崎での伝道牧会に励んでいます。又、北海道から、本州、四国にも出かけて、伝道集会と修養会を開いています。
わたし (神) の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ 43:4)
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ 9:1-3)
私はこの聖書のみことばを読むたびに感動しました。身体の障害者は因果応報ではない。また誰かの罪の結果ではない。罪の罰ではない。『神のわざが現れる』とは簡単に言えば、主イエス・キリストにお会いしてその救いにあずかることです。聖書には、障害や病気は決して神の罰ではなく、運命的な定めでもありません。むしろ、神の愛と救いが、障害者の上に与えられるきっかけとなります。上記のような理解に立って、自分の人生の使命を自覚的に果たすように努めましょう。
イエス様は、暗い私の心を照らしてくださいました。イエス様の光を、是非、あなたもお受け下さい。
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長野バプテスト教会のホームページへ ジュディ・マスク(忠和聖書教会牧師夫人)
「マスク夫人、女の子ですよ。」1961年に長女のペギーが生まれた時に聞いたこの言葉は、どんなに嬉しかったことでしょう。夫と私は初めて彼女を抱いたとき、こう祈りました。「主よ、このすばらしい贈り物に感謝します。あなたの代わりに育てるようにと、あなたは私たちにこの子を預けて下さいました。私たちを助け、この子の心に働いて、娘が若い日にあなたを救い主として信じるようにして下さい。私たちはあなたにこの子をおささげしてお返しします。この子の人生にあなたの完全なみこころを果たして下さい。」
私たちには4人の子供がいます。ペギーは最初の子でした。彼女は4才の時にクリスチャンになりました。快活で人なつこい子でした。子供たちが日本に来たのは、1970年、私たち夫婦が宣教師として来日したときでした。ペギーは日曜学校を教え、ピアノを弾き、裁縫や手芸がすきでした。一生懸命働き、何をするにも心を込めてする娘でした。
ペギーはアメリカのクリスチャンカレッジに行き、そこで夫となるマシュー・ヘンリーに出会い、1984年、卒業から7ヶ月後に結婚しました。ペギーは高校で事務の仕事を5年間してから、クリスチャンスクールで教え始めました。彼女は子供たちのために働くのが大好きで、生徒たちの多くはまるで彼女の本当の子供のようになりました。彼女は子供がとても欲しかったのですが、夫婦で祈り、10年間待って、やっとポールが生まれました (1994年)。この祈りの答えに、彼らはどんなに喜び、神様に感謝したことでしょうか。二人は「神の方法での子育て」という講義を受け、多くを学び、友人を誘うようになりました。教会や学校でのピアニストとしての働きも続けていました。
1996年の3月、娘から電話がありました。「お母さん、お父さん、私の首に腫瘍が二つ見つかったの。バイオプシー (生検) を受けるわ。」バイオプシーの結果は陰性でしたので、皆「良かった。」と思いました。しかし看護婦である2番目の娘は電話をしてきてこう言いました。「バイオプシーが陰性だったからといって、腫瘍が癌でないとは言えないわ。バイオプシーで採られた部分の組織が癌ではないということでしかないのよ。」腫瘍は頸動脈を圧迫し、急速に大きくなっていたので、早く取り除く必要がありました。私は手術の前に娘家族と一緒にいるため、アメリカへ行きました。私たちは腫瘍が良性であることを期待し、また祈っていましたが、それは神のご計画ではありませんでした。医師は手術から出てくると、腫瘍は癌であり、ペギーはリンパ腫だと告げ、彼女の癌治療の計画を立てるために、その日の午後に癌専門家に来てもらうようすでに手配したといいました。私は娘たちと一緒に6週間いましたが、それから旭川に働きのため戻らなければなりませんでした。化学療法を受けている間も、ペギーは人々が子育てにおける大切な聖書の原則を学べるようにと地区集会を開きました。教師や教会ピアニストも続けました。大学での教師としての修士課程も取りました。治療は順調だったので、彼女は癒されると私たちは期待し祈っていました。 1997年1月、また電話がありました。「お母さん、お父さん、また二つ腫瘍が見つかったの。」医師はすぐに手術の手配をし、結果はまた「癌」でした。リンパ腫はとても速く進行していたので、2月12日、私たち夫婦はアメリカに呼ばれました。彼女の肝臓はわずかの間にほとんど全体が癌で侵されていました。主人の誕生日である2月15日、私たちが行くまで彼女が持ちこたえられるかどうかもわからなかったのですが、私たちは飛行機に乗りました。おまけにその頃、2番目の娘にもしこりが見つかり、私たちがアメリカへ向かっている間に検査を受けることになっていました。3番目の娘はまもなく出産するはずでしたが、ダウン症の赤ちゃんの可能性がありました。息子は1学期間大学を休んでいました。私たちの望みと慰めは、神にありました。神が私たちにしばらくの間子供を与えて下さいましたが、子供たちは最初から神のものです。神様は私たち夫婦に対してと同様、一人一人の子供たちに完全なご計画をお持ちでしたし今も持っておられます。神のかたちに造り、練り、金のように純粋にするため、神は私たち一人一人の内に働いておられます。傷つけるためではなく私たちを助けるためです。神は私たちをとても愛して下さっていますから、一人一人に一番の最善を願っておられます。困難なときが来ても神は私たちと共にいて、支え、慰めて下さいます。求めるなら、神が働いておられるのがわかるのです。癌専門家はペギーの命をしばらく延ばせるのではと、化学療法を始めました。
ペギーが家族に宛てた手紙を紹介させて下さい。私たち夫婦が彼女の病床に着いてから数時間後に、ペギーが妹に口述で書き取らせたものです。 「これは夢でしょうか…いえ、現実です。私にはわかっています。私は癌です。自分が癌であることを知っています。
『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(Tコリント 10:13)
神は私を造られました。ご自身に似せて、ご自身のかたちに。神は私の人生にご計画をお持ちです。そのご計画が何であるのかを問うのは、私のすることではありません。私に何が起ころうと、それが神のご計画の一部であることを私は知っています。
ポールのことが一番心配です。なぜ神が、ポールと母親を離ればなれにすると決められたのか、私にはわかりません。マシューを助けて、ポールを育てられたなら、と思います。けれど神には別のご計画があるのですから、これも良いのです。マシューはすばらしい父親です。彼がポールを立派に育てることが私にはわかっています。
ポールがみこころのように育つためには、私は天国にいる必要があるのだと神様はご存じなのです。ポールはすばらしい男性になり、私は天国から彼の成長を見てきっと満足するでしょう。
私は死ぬことは恐くありません…死に至るまでのことに少し恐れはありますが。神はすべての道で共にいてくださり、私が耐えられないような試練はお与えになりません。お母さんとお父さんがここにいてくれるのがとても嬉しいです。もう私は行くのでしょうか…いえまだです。もうすぐでしょうが、まだです。」 
ペギーはその後、6月13日まで持ちこたえました。神は彼女の心に、日々必要な平安を与えて下さいました。彼女は生きたかったでしょうか。ポールを育てたかったでしょうか。マシューのそばに残りたかったでしょうか。もちろんその答えは「はい。」です。しかしそれ以上に、彼女は神の完全なみこころが自分の人生になされることを望んだのです。ある日彼女はこう尋ねました。「なぜ私が (こうならなければならないの)?お父さん。」何という難しい質問でしょう。多くの人は、両親が宣教師で神に仕えていて、ポールは彼女たち夫婦にすばらしい方法で与えられたのだから、きっと神様は彼女のいのちを助けてくれる、と思っていました。主人の答えはこうでした。「なぜおまえではいけないんだい。おまえは特別かな。神様は私たちを特別扱いしなければならないのかい。神様の道は完全で、私たちは神を愛し信頼しなければならないんだよ。」神様は彼女を癒すことを選ばれませんでした。その代わり、彼女に平安と慰めをお与えになりました。また、他の多くの祈りに答えて下さいました。神様が答えて下さらなかった祈りは、ペギーが癒されるようにということだけです。リンダのしこりは心配ないことがわかりました。マーリンの赤ちゃんは全く健康でした。ジョナサンは大学に戻りました。神様は2度も満席の飛行機に2つの座席を与えて下さいました。祈りの答えはまだまだあります。教会の主にある家族は、私たちのために6ヶ月間ほとんど毎日食事を用意してくれました。何という助けであり恵みでしょう。
もしかしたらペギーが天の住まいに行くことになったのは、彼女の生徒たちが特別に動かされるためだったかもしれません。あるいはアメリカの彼女の教会の人々や、旭川の教会の人々が、他の方法では学び得ないことを学ぶためだったのかもしれません。私たちには神様の計画は完全にはわかりません。まさしく聖書が「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」(Tコリント 13:12) と言っている通りです。ペギーはずいぶん苦しみましたが、一言も愚痴を言いませんでした。化学療法の間の3ヶ月間は元気を回復し、私たちはリンパ腫が鎮静化したのかと期待しました。しかし6月の初めに、そうではなかったことがわかりました。私たちはまたアメリカに呼ばれました。「急いだ方がいいです」と言われました。私たちができるだけ早くアメリカ行きのチケットが欲しいと言うと、それはちょうどアトランタオリンピックの直前でしたので、旅行代理店の人は笑って言いました。「一週間ぐらいしたら手に入るでしょう。」私たちは「そんなに待てません。」と言いました。私たちは飛行機の座席のために、神に祈り求めました。私は荷造りを始めました。その2時間後には、私たちは、翌日の搭乗が決まり、再入国許可を得るために札幌に向かっていたのです。
私たちは火曜日の夜アメリカに着きました。その日の朝ペギーは家の階段を歩いて降りていたのですが、午後にはもう歩けなくなっていました。木曜日には、まもなく天国へ行くことがはっきりしていました。その日一日、彼女はいろいろな昔のことを思い返していました。私たちが彼女のベッドの周りに立って、賛美を歌い聖書を読んでいるとき、彼女は天国の主のもとへ行きました。「神様、私の子供をとらないで下さい。」と神様に言えるでしょうか。私たちは彼女を、神様のみこころがなされるためにおささげしたのです。それは、私たちが35年前にした約束を神様に果たすときでした−文字通り、彼女を神にお返ししたのです。私たちは神の喜びのために造られた、と聖書は言っています。神は「園丁がしら」とでも言えるでしょう。自分の庭の花を、自分のもとへおくために摘み取る権利をお持ちなのです。神は、ちょうど良いときに選ぶ知恵と愛をお持ちです。花の中にはつぼみのものもあれば、開き始めたものもあり、満開のものもあれば衰えて枯れたものもあります。選ばれるのは神です。そして神は残された者の心も慰めて下さいます。
1997年の父の日、夫と私はペギーの棺のそばに立ち、私たちを励まし慰めに来てくれた人々に挨拶していました。夫の思いはこうでした。「ああ、私の誕生日、私たちは着いた時にペギーが生きているかどうかもわからずに飛行機に乗りました。けれど、神は数ヶ月、彼女のいのちを長らえさせて下さいました。この父の日、私たちは彼女の棺のそばに立つこととなってしまいました。」しかし、教会の主にある家族やペギーを知る人々が来て、いろいろな面からペギーのことを話してくれました。ペギーがどんなに彼らを助けたか、彼女の生き様にどんなに恵まれたか、教会でのピアノ演奏にどんなに恵まれ、なすことすべてに心を注ぐ彼女の姿を見てどんなに嬉しかったか、彼女が心から愛する主にどんなに仕えたか、などなど。突然主人は気づきました。「ああ、天の父なる神様。何とすばらしい父の日の贈り物を下さったことでしょう。本当に多くの人が来て下さり、娘が彼らにとってどんなに祝福であったかを話して下さいました。私たちが娘に子供の時教えた聖書の原則を、彼女は日々の生活で実践しました。父よ、感謝します。これは父の日に私たちに与えられた最高に尊い贈り物です。」
次の日、私たちは賛美集会を持ちました。この集会が、集った人々にとっても、マシューやポール、そして私たちにとっても、癒しの始まりとなるようにと祈りました。その通りになりました。神様は本当に多くの祈りに、多くのすばらしい方法で答えて下さいました。神様がして下さったことを、どうしてほめたたえずにいられましょう。私たちにとって大きな助けとなったのは、今はペギー自身が人生に対する神の完全なご計画を理解している、ということでした。天国へ入った瞬間、すぐにわかったはずです。彼女は「なるほど。」と言ったことでしょう。私たちにも、神様はご自身の時に明らかにして下さるでしょうから、満足しています。それは、天国へ行くまで明らかにならないかもしれません。けれど神様は間違いをなさいません。神様は私たちを永遠の愛で愛して下さいます。私たちにとっての益や究極的な祝福とならないことは、何一つなさいません。私たちはペギーがいなくて淋しいでしょうか。もちろんです。まだ時々涙を流すでしょうか。ええ、そうです。けれど私たちは、神様がすべてを益として下さるので、満足しています。神様の道は完全です。
私たちは旭川で宣教師としての働きを続け、そこの人々も救われて「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ 4:7) を知ることができるようにと伝道しています。マシューとポールは、伴侶を亡くしまだ幼い子供がいる人々のための働きを始めました。神様がどのように彼らを助けて下さったかを書いたカードや証しを送り、子供たちに小さな贈り物をしています。同じ様な痛みを持つ人々のために働くことは、彼ら自身の痛みを和らげる助けともなっています。聖書では「互いの重荷を負い合う」(ガラテヤ 6:2) よう言われていますが、彼らにとってはこれが助けとなっています。
あなたも同じ恵み、慰め、喜び、そして日々必要なものを、救い主キリストの内に見いだして下さるようにと私たちは祈っています。キリストは、あなたが人生で困難に出会うとき…実はその困難も神が許されたものなのですが…あなたを永遠の愛で愛しておられます。キリストのもとへ今、走り寄って下さい。ためらってはなりません。キリストはあなたの心の必要を満たして下さいます。もしあなたがまだキリストを自分の救い主としていないなら、ためらわず受け入れて下さい。キリストはあなたの助けとなりたいと願っておられます。あなたを愛しておられます。なぜですか。「神は愛」だからです。
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長野バプテスト教会のホームページへ 岡崎 真紀姉(台湾宣教師夫人)
「ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。『私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。』」(創世記 30:1)
ヤコブは、ラケルとレアという二人の姉妹をめとりました。まもなくレアは妊娠して次々と子どもを産みますが、ラケルは何年たっても妊娠しませんでした。そこで、彼女が夫のヤコブに泣きついて言ったのがこの言葉です。 これを読んで、どう感じられるでしょうか。初めて読んだ時の私の感想は、「こんなことを夫に言っても、人間に何もできるわけがないのに。なんて愚かな人なんだろう」でした。でも、自分が同じ立場に立つようになると、それがまちがっていたことが分かってきたのです。
1992年9月、30歳で結婚。結婚すれば、当然子どもが与えられると思っていました。毎朝、基礎体温を測って、排卵日を予測し、妊娠したら、まず誰に何と言って知らせようかと、わくわくしながら想像しました。しかし、毎月判で押したように正確に生理が来ます。翌年からは台湾宣教の準備として、日本全国の教会を訪問するようになりましたので、きっと忙しくて妊娠するひまがないのだろうと思いました。
1994年10月、台湾に遣わされ、宣教地での生活が始まりました。言葉や習慣の違いから来るストレスはありましたが、前のようにしょっちゅう家を空けることはなくなり、ずっと自宅で暮らすことができますので、きっと妊娠できるに違いないと期待しました。
台湾に行った頃、小さい子どもを連れている人や妊婦さんがよく目に付きました。日本と比べて、子どもの数が多いのか、そういう人たちも気軽に外出する習慣なのか、確かなことは分かりませんが、私の願望も大きく影響していたでしょう。 しかし、いっこうに妊娠の徴候はありません。続けて基礎体温を測り、生理が遅れると、もしや、と期待し、失望し、落ち込む。ということを繰り返すうちに、次第に落ち込みが激しくなって、泣くことが増えてきました。「結婚して、まだ3年だから」と、自分でも思い、人からもそう言われましたが、慰めにはなりません。
台湾に来て一年が過ぎ、結婚四年目に入った頃から、子どもが与えられるように、と祈ることができなくなってきました。神様は90歳のサラに子どもを与えられた。不妊だったラケルも、ハンナ、エリサベツにも、与えられた。
でも、御こころであるかどうかどうして分かる?御こころでなかったら?
期待せずには祈れない。期待すれば失望も大きい。家庭礼拝の時、主人はいつも子どものことを祈ってくれましたが、私は祈れませんでした。 日本書籍のある書店に行った時には、不妊症についての本をぱらぱらとめくってみました。「2年以上、正常に性生活を営み、かつ妊娠しないことを、不妊症と診断する」
結婚してから、もう4年以上たっていました。りっぱな不妊症です。私は35歳。早めに何かした方がいいのではないでしょうか。しかし、主人は医者に行くことに反対でした。ただ検査して、悪いところがあれば治したいだけ、と私は思ったのですが、主人としては、それさえも「人間的な方法」、「ゆだねていない」と感じられたようです。
身近に接する中国人の中には、子どものいない人はいません。私の気持ちを分かってくれる人は、いそうにありませんでした。「そろそろ産んだ方がいいよ」とか、「いつ産むつもりなの」とか、言う方にしてみれば天気の話題と同じ、話の種の一つなのでしょうが、私は、一応笑顔で受け流しながら、心では泣いていました。
クリスチャンの中には、励ましのつもりで、「感謝して祈っていれば、与えられるよ」と言ってくれる人もいました。しかし、これは、私にはいちばんきつい言葉でした。私は感謝も祈りもしているつもりなのに、これでは足りないと言うことなのでしょうか。
また別のクリスチャンたちは、医者に行くことを勧めてくれました。しかし、どの医者に行けばよいのでしょう。主人の賛成なしに行くこともできません。主人は、医者を勧められるといつも、「神様が導いて下さる、御こころの時に必ず与えられると信じている」と答えました。それを聞いているのも、私には辛いことでした。「みこころの時」は、ないかもしれないのです。主人と同じように、「必ず与えられる」と信じることはできませんでした。
もちろん、神様からの慰めも多くありました。個人のディボーションの中で、説教や、ほかのクリスチャンの証しを通して、どんなことでも神様にゆだねるべきであることを、何度も教えられました。子どもは神様の賜物なのですから、与えるかどうかは神様が決められることなのです。その神様は、私にいちばんいいことをして下さるはずなのです。私は、神様のご計画をすべて分からなくても、神様が私を愛して下さっていることが分かっていますから、それで十分です。十分なはずなのに、どうしてまだ悩むのでしょうか。
世の富や名声、家族のそばにいられないこと、今まで、子ども以外のことでは、何でもゆだねられたのに。ゆだねて、あとは本当に平安で、何も葛藤はなかったのに。どうしてこんなに子どもがほしいのでしょうか。 神様は、命をはぐくむ女性に、その思いを与えられたのでしょう。冒頭のラケルの言葉に戻りますと、私も今は、彼女の葛藤が手に取るように分かる気がします。理屈ではない、心の奥底から湧き出る願い。それが満たされない渇き。うち消そうとしてもうち消せない、姉への嫉妬。ラケルだって、夫がその願いをかなえる力のないことぐらい分かっていたと思うのです。でも、彼女が自分の気持ちを吐き出せる相手は、夫しかいなかったのではないでしょうか。私も、ラケルと同じ言葉は使わなかったにせよ、何度も主人には不可能なことを訴えました。主人が私の気持ちを完全に理解することはできないと分かっていても、どこかで吐き出さずにはいられませんでした。 
キリスト教書店では、「Dear God, Why Can't We Have a Baby?」という本を見つけ、数週間迷った末に購入しました。アメリカの伝道者夫妻が、自分の経験を書いた本の中国語版です。私にとっては、ほかにも自分と同じ悩みを持ち、同じように感じている人がいることを、本当に知った最初の経験でした。自分以外、すべての夫婦に子どもがいるように思えてしまうこと、期待と失望の繰り返し、人の何気ない言葉に傷つけられること、自分の体に何か問題があると認めたくない気持ちなど、私と同じ感情を経験した人たちが確かにいるのです。
また、私は、この本から不妊治療に関するいろいろな知識と、中国語の語彙を学びました。評判のよい産婦人科医が、不妊治療の方面でも有能だとは限らないことや、かえって、不妊治療にかかわりたがらない医者も多いことも知りました。この本に書いてあるすべてに同意することはできませんが、ほかの何よりも私を慰めてくれたものの一つでした。
1997年夏、別の地方の教会の研修会で、聖書を教える奉仕にあずかりました。奉仕者たちの素朴な信仰態度には、こちらの方が教えられることが多かったと思います。 奉仕を終えて家に帰ろうとする時、恵まれた数日間を思い返し、「もし子どもがいれば、私は来ることができなかった。こんなすばらしい時を経験することもなかったのだ。子どもがいなくてよかったのかも・・・」という考えが浮かび、大急ぎでうち消しました。もし、自分の子を身ごもり、産み育てることができるなら、私は喜んでこの奉仕の恵みを投げ出すでしょう。子育てが終わるまで、働きは待ってくれるのではないでしょうか。いいえ、一人の(あるいは二人以上でも)人間を、神様のお役に立つクリスチャンに育てることは、りっぱな働きなのではないでしょうか。
家に帰ってしばらくしてから、働きの必要上、インターネットを始めました。働きのために使う以外に、私はやりたいことがもう一つありました。不妊症について、妊娠のために私が今できることは何か、インターネットを通じて情報収集ができるのではないかと考えたのです。
期待した通り、いくつかの不妊専門クリニックがホームページを持っており、不妊症の本に書いてあるのと同じような知識を提供してくれました。また、不妊の人たちが悩みや相談を書き込むことのできる掲示板も見つけました。初めは、「単なる傷のなめ合いだろう」と、よく見もしなかったのですが、そこには、私が感じていたのと同じ、失望やいらだち、葛藤をいだいている人たちがありました。未信者からこんなに慰められるなんて(こういう表現をすると怒られてしまいそうですが)、本当に思ってもいませんでした。
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Tコリント 10:13)
私のあった試練は、人の知らないようなものではない。もう私は孤独ではありませんでした。私と同じ試練に会っている人が、こんなに大勢いるのです。神様を知らないだけに、私以上に大きな悩みを、ひとりで抱えている人たち。
そのホームページで、ある人は、自分と同時期か後に結婚した夫婦が次々妊娠して、焦りと嫉妬を覚える、そんな自分がいやでたまらないと書いています。また、孫を期待する双方の両親に申し訳なく思う人。夫との間までぎくしゃくしてしまっている人。医者に行って、いろいろと悪いところが見つかって落ち込んむ人もいれば、何も原因が分からないために悩む人もある。現代の進んだ医学の恩恵を受けることができるのを喜んでいる人もいれば、「自然」にこだわる人もいる。めでたく妊娠すればしたで、流産するのではないかと不安におののく人も。
そこでは私も、主人にも言えないような悩みを、ありのまま、書くことができました。インターネットという顔を合わせない場だから、それができたのかもしれません。
1998年に入っても、悩みは相変わらずでした。10月には台湾に来て満4年になり、帰国する予定でした。その頃には私は37歳になります。何かするなら少しでも早い方がいいのではないでしょうか。
医者に行って、原因を突きとめたい。「できない」とはっきりすれば、きっとあきらめもつくだろう。そう思う反面、人工授精も体外受精もするつもりはありませんでしたから、単にタイミングを見てもらうだけなら、行っても仕方がないような気もします。 ずっと反対していた主人は、「君の気がすむようにすればいいよ」と言ってくれました。そう言われても、まだ自分自身の気持ちがどっちつかずで、何週間か延ばし延ばしにしていましたが、とうとう、意を決して、以前から目を付けていた「不孕症」の看板のある産婦人科を受診しました。 排卵誘発剤を飲み、超音波で卵胞の大きさを診て、タイミングを計る、ということを3ヶ月続けました。始めた頃には、これで妊娠できるような気がして、期待も大きかったのですが、やはりだめでした。また、人工授精を勧められることもいやでした。
命を支配していらっしゃるのは神様です。現代医学がその領域に踏み込むことがどこまで許されるのか。インターネットを通じて知り合ったクリスチャンの中には、体外受精で妊娠した方もあり、「神様は、医学がこれほど進むこと許しておられるのだから、それを使うことも許されるべき」という意見も聞きました。当時の私の観念では、受精卵は一つの命なので、受精卵の廃棄の問題の出てくる体外受精はするべきでない、という程度でした。その後、もっと厳しい意見もあることを知りました。「性行為も生殖行為も、神様が夫婦にだけ与えられたもので、そこに第三者(医者など)が入ることや、性行為と生殖行為を切り離してしまうこと自体が誤り」。どちらが正しいのか、未だによく分からないのですが、神様に喜ばれないかもしれないことは、絶対にすまいと決めました。そうすると、性行為をいつ持つか、医者に決めてもらっている今の自分の状況は、「性行為に第三者が入っている」のと大差ないのではないかと思えてきました。よくよく考えてみれば、医者に行くようになってから、私は神様に期待せずに、医者に頼っていたのではないか。
もう人間の医者に頼るのはやめよう。そう決心することは、私にとっては、子どもを永遠にあきらめることと、ほとんど等しいように思えました。しかし、この何年か、私が悩んでいたのは、子どもが与えられないという事実そのものではありませんでした。与えられないならそれでもかまわない。それは、神様が決められること。そう本当に思うのに、私の心の別の部分は、「我が子」を求めて叫んでいる。そういう、試練の前に超然としていることのできない自分、泣かずにいられない自分が、どうにもいやだったのでした。でも、神様が、私をこのように造られたのではありませんか。子どもをほしがる思いを私に与えられたのは、神様ではありませんか。
そうでしたら、神様は、私のこの感情を理解して下さっている。これからも、やはり子どもがほしいと言って泣くとしても、そのすべての責任は、神様がとって下さる。泣いてもいいんだ。そう思った時、すっと楽になりました。神様は、私の涙を分かっておられて、責めたりなさらない。私は、神様の前で、ありのままの私でいていいのです。この試練は、まだ過去のものとなったわけではありません。今でも、生理の前になると、もしや、と期待しながら、失望に備えて心構えをしている私がいます。赤ちゃんや妊婦さんを見ると、心から祝福を祈る一方で、どこかに痛みを覚えている私がいます。すっぱりとあきらめることもできず、未練がましい私。でも、神様は、こんな私を愛して、受け入れて下さっているのです。これからも、愛して下さっている神様に頼って、ともに歩んでいきたいと思っています。
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長野バプテスト教会のホームページへ M・K 様
長女Mにアトピー性皮膚炎が出始めたのは、生後一ヶ月の頃でした。幸い、食べ物や衣類に気をつけることで、ある程度おさえることができましたが、4才5才と大きくなるにつれ、症状もひどくなっていきました。小学校入学の頃は、頭、顔、胸、手足と広範囲に炎症が広がり、ステロイド剤の量も少しずつ増えていきました。娘に対する友達の態度も厳しいもので、ゾンビ、ミイラといわれたり、汚いから殺すと傘で刺されたり、ランドセルに傷を付けられたり…。次第に笑顔が消え、「行って来ます。ただいま。」も言わない子になっていきました。
その後病院を変え、新しい治療法を始めました。1日3回のシャワー、野菜中心の食事、消毒、手、首、足の包帯。シャワーの時などはお湯がしみるので、まるで虐待されているかのように悲鳴をあげ、「痛くて息ができない。」と泣き叫びました。夜も寝ている間にかかないように、主人と交替で見張りましたが、朝になるとシーツも蒲団も血と汁で汚れ、そこに蟻の行列ができるほどでした。日を追うごとに症状がひどくなり、体も心も傷つきぼろぼろになっていく娘を、助けることができない自分と、「神様は祈っても聞いてくれない。」と泣く娘の悲しみに、私の心もつぶれてしまいそうでした。
6月に入り、娘の様子がいつもと違ってきました。微熱が続き、そよ風が吹くたびに泣いて痛がるようになり、首を動かすことができなくなっていました。どうしていいのかわからないまま、友人から教えていただいた病院を受診し、その日の内にアトピー性皮膚炎による感染症ということで、緊急入院となりました。遠い町にある始めての病院に2ヶ月間入院することは、6才の娘には大きな試練でした。イソジン液で全身を消毒し、夜はかかないように手を抑制されたりと、つらい思いをしたようです。
はじめの2週間は泣いてばかりでしたが、そのうちに入院しているお友達のことを話してくれるようになりました。隣の部屋の、4年生の男の子とは心が通じたようでした。その子は突然呼吸困難になり、全身麻痺の状態で人工呼吸器をつけているということでした。娘は毎日その子に挨拶をし、絵を見せ、話しかけるようになりました。その他にも、いろいろな病気のことお友達になり、「私はましな方だよね。きたないけど、手も足も動くから。」とお友達をいたわるようになりました。
自分の痛みや苦しみだけを見つめていた娘が、他の子供たちの痛みに気づいたときから、少しずつ変わっていきました。毎日泣いていたのが泣かなくなり、入院中の小さな子供たちに本を読んで聞かせたり…。2ヶ月が過ぎ、退院後も治療は続きましたが、入院前のあの今にも壊れそうな娘はどこに行ってしまったのかと思う程元気になりました。現在Mは10才になります。季節によって、アトピーが出ることもありますが、自分の体を上手にコントロールしているようです。
子供が苦しむ姿を見ることは、母親としてとても辛いものでしたが、娘と一緒に心から祈ることができました。泣くことができました。「祈っても聞かれない。」という娘の言葉に、小さな子供がどれほど真剣に祈ってきたのかと考えさせられました。病気は決して喜ばしいものではないけれども、病まなければ見えてこない神様の恵みを知ることができました。この子がそばにいること、同じ家で暮らせること、当たり前であることが特別なことであるという恵みを。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(聖書:第2コリント1:4)
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
この言葉は、聖書という書物に書かれた言葉です。その時代 、イエス・キリストの言葉を世界に伝えようと働いたパウロという人が語った言葉です。私(パウロ)を強くしてくださる方は、すなわち、イエス・キリストという方なのです。そして、このキリストという方の力によって、どんなことでもできる、という確信を、この言葉があらわしています。
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長野バプテスト教会のホームページへ 内薗 剛師
私は、このキリストに出会うまで、自分の生きていることの価値・意味を探しながら、いつも周りに気を遣って生きていました。それは、私が脳性麻痺という障害を負っていたために、両親に申し訳ないという思いで生きていたからです。私は心のどこかで、神様という存在を求めていました。「もし、神様という方がこの世におられるなら、私の苦しみをご存知のはずだ。」と思ったのです。そして、ある日、友人に誘われ、何の抵抗もなく教会に行って、イエス・キリストを信じました。
その時から、私の人生は変えられたのです。「自分は厄介者だ。」という思いから解放され、「神様のため、他の人がイエス様を信じることができるように働こう。」というまったく正反対の毎日を送れるようになったのです。私は、この障害を「賜物」(神様からのプレゼント) と考えるようになったときから、本当の意味で解放されたように思います。人から、「障害があると大変でしょう。」と聞かれます。でも、私はそう思わないのです。生まれた時からこの状態なので、不便と思わないのです。
世の中に健常者と身障者という区別があるとすれば、「健常者の社会の基準」で私たち障害者は、補うべきところがある、ということなのです。その部分をのぞけば、何ら違いはないのです。どちらが劣っているとか勝っているということはありません。「神様の基準」なら、私たちはだれもが平等なんだと声を大にしていうことができます。もし、そんなの嘘だと思われる方は一度、試してみて下さい。聖書にその答えがきっと見つかります。私は、自分の障害についてこう考えています。「私に障害がもしなければ、行動範囲も広く、めちゃくちゃな毎日を送っていたと思います。ですから、神様のブレーキがあった方が良くて、こうなったのだ。」と。だからとても感謝しています。
自分のありのままを受け入れて生きる今はすばらしい毎日です。ぜひ、他の方も、この解放感を味わっていただきたいと心から願っています。イエス様を受け入れたその瞬間から、私と同じ解放感を味わうことのできる日が来ることを保証します。聖書にはこう書かれています。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と。
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長野バプテスト教会のホームページへ 有川 吉一師(沖えらぶバプテスト教会牧師)
『しかし、主は、「私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(Uコリント12:9節)
この言葉はあの伝道者パウロが語った言葉です。パウロは肉体に一つのとげが与えられていました。そして、その肉体のとげ、弱さをも彼は喜ぶ事ができました。確かに人は多くの弱さがあります。弱さを何一つ持っていない人などいません。その弱さの表れ方は人によって異なります。肉体的な弱さを持っておられる方、精神的な弱さを持っておられる方など様々です。

私にも弱さがあります。私には吃音があります。小学生の時からこの事で悩まされました。人前で緊張してしまう時には自由に話をする事ができません。緊張すればするほど話せなくなってしまいます。特に話し難い言葉があります。ですから話しながらその言葉に近い言葉(意味において)を選びつつ語っています。対面して話す分には、私の様子が分かっていただけ、まだいいのですが、電話だとそうはいきません。相手が見えず言葉だけです。ですから益々緊張しやすく、話し難くなります。私にとって人に話す事は得意な事では無く、かえって困難な事であり避けたい事です。そのような弱さを持っている私が今、牧師として人々に神様のみ言葉を話す事のできているのは本当に不思議な事です。ただ神様の恵みと憐れみとしか言う事が出来ません。今でも、話ながらつまってしまう事があります。しかし、神様は不思議にその言葉を少なくしてくださっています。私にとって吃音はある面においては辛い事です。けれども、そのような弱さを持った私をも用いて下さる神様を覚える時に、パウロが語ったように私も私の弱さを誇る事が出来ます。何故ならば、その弱さがある事によって自分ではなく、神様にこそ頼る事が出来るからです。弱さ、それは決してマイナスの面だけではありません。
パウロは、Tコリント12:14〜27節において、クリスチャンはキリストの体であり、また一人一人は各器官であると語っています。 「それは、体の中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。」(Tコリント12:25〜26)
私達は誰でもが弱さを持っています。では、弱さがある事は問題なのでしょうか。決してそうではありません。その弱さの中にこそパウロのように神様の大きな愛と導きを覚える事が出来ます。また人と接する時、その痛みを知ろうとする心が私達の内に育てられ、共に苦しみ、共に喜ぶという恵みが与えられるのではないでしょうか。こうして私達は「愛する」という事を教えられて行くのだと思います。私達はキリストの体の各部分とされました。ですから弱さを補い合います。何故ならばキリストにあって一つであり、互いにキリストの体を建て上げているところの各器官であるからです。この確信を全ての兄姉が持つ事は大切です。 私達の教会には肉体的な弱さ「高齢の方・障害を持っておられる方」そして、精神的な弱さを持った方もおられます。そのお一人お一人が主イエス・キリストに出会い、救われ、毎週の礼拝でいつもの席に座り、主を賛美し、祈られているその姿は私達の教会にとって大きな恵みであり祝福です。
全ての人が何らかの弱さを持っています。しかし、その弱さは弱さだけで終わるのではなく、その中から神様の栄光も生み出されて来るのではないでしょうか。
私達は「弱さの中に示されるキリストの恵み」にこそ目を留めながら、自分自身と他の兄姉の交わりにおいても成長したいと願います。