脳性麻痺などのハンディ
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない (マタイ 12:20)
○食卓の下の小犬でも
内藤 俊宏師(美浜バイブルバプテスト教会牧師 野の花主筆)
この出来事は、異邦人の地で起こりました。この婦人は、ギリシャ人でありました。マタイは、イスラエル人の敵とされていたカナン人であったと記しています。彼女は、二重にも三重にもハンディを負っていたのです。それでも、この母親を動かしたものは、小さな娘が病に苦しむ姿でした。それが、イエス様のことを『聞きつけてすぐにやって来た』強い動機でした。福音を聞いても見向きもしない現代人と対照的です。
ところがイエス様は、『まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』とおっしゃったのです。マタイでは『一言もお答えにならなかった』をつけ加えています。つまり完全無視です。さらに『イスラエルの滅びる羊以外のところには遣わされていません』と言われているように、イエス様にはイエス様なりの理由があったのです。しかし。短い『まず』を見落としてはなりません。まずがあるからには、次があるはずです。まず福音はイスラエルに、そして次に異邦人にというのが、神のご計画です。人間のニードで、この世界は動いているわけですが、ここの出来事では人間のニードよりも神のご計画が最優先されることを教えてくれます。それでいて人間の必要がまったく無視されているわけではないのです。人間の世界ではあちら立てればこちら立たずで不公平が生じるのですが、神の賢いご計画にはそのようなことはありません。
重荷に苦しんでいる者の特質は、相手の事情を考えるゆとりを失っています。この母親の心は娘のことでいっぱいであったでしょう。イエス様の突き放すような態度を通して、この母親はこの訓練を受けなくてはなりませんでした。そうした中で主は、子供の問題を解決する前に、母親を取り扱ってくださったのです。戦前に私は、当時 日本で数少ない養護学校に通っていましたが、ある朝「行きたくない」とダダをこねました。負ぶわれた私を見て、「大きな赤ちゃん、あめ買ってしゃぶれ」とはやし立てられるのがこわかったのです。「そんな弱虫では、生きて行かれないよ」とすごく叱られたのを覚えています。レーナ・マリアさんの母親は「子供の障害は、親が背負ってしまってはいけない。そうすると、母親を通してしか人生を生きられなくなる」と障害者を持つ家族に非常に適切な助言を与えています。
母親は、無視や冷淡とも聞こえる言葉にひるみませんでした。『主よ。そのとおりです』と、自分はその恵みを受ける資格のないことを素直に認めたのです。問題の渦中にある者にはこれはなかなかできないことです。しかし、この母親はこれで終わりませんでした。『でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずはいただきます』と、日常生活によく見られる光景を通して、信仰を表明したのです。『そのとおり』とは言いにくい言葉ですが、言いやすい言葉でもあります。この言葉は、へりくだるようでいて、神のご意志に逆らい自分の殻に閉じこもってしまう諸刃のやいばの性質を持っています。それで引き下がってしまえば何も起こりません。ある説教者はこの短い『でも』が恩寵の世界を引き出したと言いましたが、まさにアーメンであります。
○忘れてはならないこと
田中 靖男師(単立荒川沖教会牧師)
『灯心』に娘さんのハンディと共に歩まれた日々の事を含めたメッセージを…の電話と、お便りを頂きました。再び、記憶を辿りながら、証をします。
一言も言葉らしい言葉を語る事もなく、歩く事も無く、21歳の春に天に召された長女『悦子』を思い起こして私達の家庭に起きた出来事を証し致します。
長女悦子は、今から13年前に天に召されました。しかし、今も鮮明に心に残っている事が多くあります。その中から、幾つかを取り上げてみます。
-娘の誕生~どうして?-
その一つは、開拓生活から荒川沖に移り住んで間もなくの事でした。
主の働きをと志していた私は、組合の共同開拓生活に歩調を合わせる生活が困難になり、何もかも置き去りにし、夜逃げ同然で開拓地を捨て、父と母の故郷、山形県に行くつもりでした。日曜日でもあり、交わりを共にしていただいた荒川沖教会の兄姉に挨拶のつもりで立ち寄ったのです。
しかし、不思議に神様は道を開いて下さっていました。礼拝後、荒川沖教会の兄弟達から、主の為に働きたいことを望むなら、荒川沖で働いてはと持ちかけられ、荒川沖教会にとどまり、間もなく宣教師館の仕事と教会堂管理の働きをするようになりました。
それから2年半たって、私達に赤ちゃんが与えられていることがわかりました。貧しいながらも信仰の自由が与えられ集会を守れる新しい信仰生活を送っていました。
そんな折、国立病院で出産を迎えたのですが、回旋異常の難産で破水して、生まれてくるまでに9時間に及ぶ長い時間がかかりました。医師が不在であったのも、その原因でした。医学に関して知識を持たない私は、難産のことをあまり気にもせずにいましたが、検診の時を迎えるごとに不安が増してきました。家内はいち早く、悦子の異常に気づいていました。悦子の首のすわりが遅いのを心配 し始めていました。それと共に目の瞳がチラチラ動くようになり、焦点が定まらない様でした。検診の時、小児科医師に、脳性小児麻痺の疑いがあると言われた時、目の前が暗く なって、気が抜ける思いでした。
詩篇の中に度々述べられている著者の叫びでもある「どうして」「何故に」という 思いがそのまま私たちの言葉になりました。すべてのことは神様の許しのもとに、とはなかなか思えませんでした。「どうして」私たちにこのような事が起こったのか…?
病院から、自宅までの10キロの道をバスにも乗らず悦子を背負って気落ちして歩い て帰ったのを覚えています。頭の中が真っ白になる体験をしました。私達の苦悩ともいえる戦いは、この時から始まった感じです。
国立病院から紹介状を頂き、東京虎ノ門病院、板橋の身体養護病院、あちこちを飛び回りました。最終的な病名は、「お産による障害で脳性小児麻痺」でした。病状 は、次第にハッキリ現れるようになりました。首は据わらず、瞳のちらつきも消えま せんでした。膝も足も手も力なく、自らの力では何も出来ない状態でした。
病気をしたり、風邪をひいた時は大変です。普段でも細い体なので熱が出ると死人 同然の体のように「ぐったり」してしまうので、町の医師は関わる事を望まなかったのです。こんな時は、神様に祈り、助けを願うほか方法はありませんでした。食事も、噛んで砕いて食べさせたり、つぶして練って食べさせるようになりました。 家内は食事の為に長い時間がかかるようになりました。
そして、私達の家庭に1年8ヶ月違いで次女と長男が続いて生まれました。続いて二人生まれ、5人の子供が与えられました。私達の大変な生活が始まりました。
-悩みの日々-
悦子の体の成長と共に、多くの時間が必要になってきました。何処に行くにもいつも一諸です。恥ずかしい話ですが、悦子の事はいろいろと記憶に残っているのです が、他の子供達がどうして育って来たのか、部分的にしか覚えていないのです。私の 家庭は悦子を中心に動いて、他の子供達も無意識の中に協力を強いられていたようです。
そんな時、このままでは、教会の働きは思うように出来ないのではないか、施設にあずけるのもーつの方法では、と勧めてくれる信仰の友もありました。
今から35年前は福祉施設も良く整備されていなかったので、施設にあずけるのは子供を捨てるのと同じだと言う声を聞いていました。又,障害者を持つ家庭にとっては、「障害者を外に出す事は家の恥をさらすことだ」と言う慣習めいたものもあり、障害者を隠す生活も事実あったのです。今の開かれた障害施設の完備の時代からは考えられない、閉ざされた障害者を持つ暗い生活がありました。
そんな中で、どちらを選ぶべきか、本当に悩みました。「障害者を捨てる」ようなものだと言う言葉と、「先を考えなさい。行き詰まる時が来る」という児童指導員の言葉でした。
また、同じ年頃の子供達が道路を走り去る姿を目にしては泣いている家内の姿を見 る機会が多くなりました。表情も暗く悲しみが染み込んでしまったように思えました。
-凡てのこと…-
悦子は体が弱く、病気を重ねる度に、次第に私たちの手ではどうしようもない時期を迎えていました。ある時、重い風邪と熱の為に近くの医者に行きましたが、十分な治療を受けられず帰って来た事もありました。
そんな時、ふと口ずさんだ歌です。
『我が子をば、
両手に抱き 待ちわびる
天つ憩いのあめなる我が家』
私たちはたちは,気が進まぬながらも、児童相談所や市の福祉課に勧められて、見学するだけでも、と言う言葉に、職員に連れられ、茨城県の東海村にある県立重症児施設「青嵐荘」を見学に行きました。それは、70キロ程の道でしたが遠くに感じられました。こんなに遠くには預けられないと内心で決めていました。何かとても寂しい気持ちになっていました。
しかし、着いてみるとその施設は、新しくできたばかりの重症心身障害施設で、とても明るく和やかで、そこにいる方々も明るく、聞いていた話とまったく違っていました。本当に開かれた施設でした。行き詰まりを感じていた私たちにー筋の光が与え られました。専門のお医者さんが何時もいる。そして、施設の子供たちの目は、美しく輝いて澄んでいました。神様は、不自由な子供達が、誰からでも可愛がられるよう に、美しい目と笑顔と声を与えておられるのだと思いました。私たちの思いは明るく させられ、悦子は8才の時に青嵐荘重症身体障害施設に入院したのです。 私の悦子にも、嬉しさを表わす笑顔と声は最後まで神様は与えていてくださいました。
私たちの生活は、悦子を中心に動き、お風呂当番、床屋当番と様々な行事で青嵐荘 に面会に行く事がーつの楽しみとなっていました。障害を持つ父母とも交流するようになり、教会に来られる方もありました。障害者を持つことで、新しい友が与えられ た事も確かです。施設に預けて13年間の中で、何度か危ない時もありました。
私たちの身に起こる事で、神様の知らない事は何もない、神様はすべてを知っている上で、この苦しみを私たちに与えられた、という事を少しずつ理解出来るようになっておりました。時として、私たちに不都合に思える出来事も、神様は摂理の内に 益とかえて下さるのです。
「神を愛する者、御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」(ローマ8:18 文語訳)
ある老宣教師がこの御言葉を解りやすく説明して語ってくださったことを思い出します。ケーキはどうして美味しくなるか御存知ですか…と聞くのです。小麦粉だけでも美味 しくない、バターだけなめても美味しくない。生の卵だけでも美味しくない。いろい ろな物が混ざり合って焼き上げられると味が出てきて美味しくなる。と言うのです。「すべてのこと」の中には、私たちが望まない、願わないことが沢山ありますよ…。「凡てのこと感謝せよ。これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給ふ所なり」(I テサロニケ5:18-19 文語訳) 思わぬ出来事も、感謝して受け止める信仰を神様は求めておられます。
-忘れてはならない日々-
悦子の状態は、少しもよくはならず、年と共に脳性麻痺の病状はハッキリ見られました。手足は、カニの足のように曲がり、胸と背の幅は板のように薄くなり平らになっていました。21年の仰向けに寝たきりの生活は、身体を変えてしまっていたのです。体を起こすと、痛みがあったのでしょう。痛みをこらえているのが解りました。我慢の強い子だった事が印象に残っています。重症になるにつれ、笑いにも、声にも張りが薄くなっていました。
それでも声をかけると笑顔で応答しました。面会に行っても、別れが辛く、寂しそうな顔を見るのがたまらず、声をかけずに、そっと帰って来る日も度々あり、良心の 呵責にあい、それでも親なのかと自問することもありました。いつかはと覚悟していた日は、遂に、私たちにもやってきました。青嵐荘からの電話と聞くだけで、びっくりとして、もしかしてと不安が先走りしました。病院内に流行った風邪は、悦子にも及 び肺炎をおこして重体となりました。機械で呼吸していました。血液は黒色に変わっていきました。
これ以上、長く命が伸ばされることを願う事はできませんでした。何も訴えることが出来ずに耐えてきた悦子は、私をそんな思いにしていました。悦子は、21才1ヶ月 の生涯を、私たちの目の前で終わりました。
一番親の助けを必要としていた悦子と一番遠く離れ、悦子は13年も一人で生活しました。何も求める事もなく、何の我が儘も言わないまま、家族から離れて生活し、天に召された悦子です。
あれから13年の月日が過ぎてしまいました。忙しさの中に忘れ去られようとしていた出来事が再び思い起こされました。「これは忘れてはならない出来事」なのです。そして、主は「私に何かを語りかけている」と思わずにはおられません。
あの頃は、大変で苦労も多かった。しかし、あの頃の悦子を中心にして過ごした21年は、私たちにとって最高の年月だったのだと、神様の恵みを思い起こしていま す。過ぎ去った日々の出来事の中に、忘れてはならない神の摂理による恵みと取り扱 いがあります。
「何ーつ忘れるな」の冒頭の聖句を思い起こして、この主の恵みを思い起こしております。神の聖徒達はイスラエルの祖先に為された御業を回想して神を褒め歌っています。私たちも、今の苦難の中から犠牲の賛美を奉げて神を崇め賛美する事を主は求めておられるのです。
○ありのまま受け入れて
内薗 剛師
その時から、私の人生は変えられたのです。「自分は厄介者だ。」という思いから解放され、「神様のため、他の人がイエス様を信じることができるように働こう。」というまったく正反対の毎日を送れるようになったのです。私は、この障害を「賜物」(神様からのプレゼント) と考えるようになったときから、本当の意味で解放されたように思います。人から、「障害があると大変でしょう。」と聞かれます。でも、私はそう思わないのです。生まれた時からこの状態なので、不便と思わないのです。
世の中に健常者と身障者という区別があるとすれば、「健常者の社会の基準」で私たち障害者は、補うべきところがある、ということなのです。その部分をのぞけば、何ら違いはないのです。どちらが劣っているとか勝っているということはありません。「神様の基準」なら、私たちはだれもが平等なんだと声を大にしていうことができます。もし、そんなの嘘だと思われる方は一度、試してみて下さい。聖書にその答えがきっと見つかります。私は、自分の障害についてこう考えています。「私に障害がもしなければ、行動範囲も広く、めちゃくちゃな毎日を送っていたと思います。ですから、神様のブレーキがあった方が良くて、こうなったのだ。」と。だからとても感謝しています。
自分のありのままを受け入れて生きる今はすばらしい毎日です。ぜひ、他の方も、この解放感を味わっていただきたいと心から願っています。イエス様を受け入れたその瞬間から、私と同じ解放感を味わうことのできる日が来ることを保証します。聖書にはこう書かれています。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」と。
○成人式を迎えて思うこと
黒田ちえ子姉(単立荒川沖教会)
五ヶ月に入った頃、頭がとても大きいという事が解りチェックを受けました。食事制限をしても子供はどんどん大きくなり、胸にもつっかえる様になって益々体に負担が強くかかる様になってきました。仕事も辛く思える様になってきても、責任上辞めることも出来ず、体に負担を感じながらも続けていました。私の両親はすでにいなかったので実家に帰って心身を休める事も出来ず、夫は出張で留守が多かったので頼る事も出来ず、思うようにならない体のしんどさを覚えつつ、上の二人の子の世話をしながら夫の帰りを心待ちにしていたことでした。
臨月を迎えようとする時、夫は長期出張のため、海外へ行ってしまいました。妊娠中で不安定になっている上に、夫のいない不安、淋しさがストレスになり、心理状態がおかしくなり神経が病んでしまいました。私の精神状態は極限に達していましたが、そのような中にイエス様がいつもいて下さり、私が壊れてしまわない様に支えて下さいました。
「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。」(詩篇102篇17節)
このような孤独の中で、神様によって私は練られていきました。誰も頼る人がいない、自分の体さえ思う様にはいかない。神以外頼る人は誰もいないという思いを、強く感じさせられたのでした。人間に頼る事をせず、神に頼り従っていく事。すなわち肉の父から霊の父へと親替えをしていく必要を神様が教えて下さったのでした。
このような自立が私には必要であり、この頃からより一層、出来るだけ人に頼る事をせず、神により頼んでいこうという強い思いが与えられ、自立の道を歩み始める事になりました。いよいよ産み月に入り、突然、破水が起こりました。初めての経験だったのでどうしたら良いのかパニックになってしまいました。とりあえず処置をしてから病院に連絡をし、医者の指示を受けました。「感染症が怖いので、すぐ来るように。」と言われ、急いで病院へ向かいました。痛みも来ているのでお産が始まっているとの診断でした。
しかし、どんどん陣痛が強くなってもなかなか子供が降りて来ないので、看護婦さんが上に乗って押したり、色々やってみても状況は変わらず、時間ばかりたっていく中で私の体は衰弱していき、医者もあせり始めました。強い陣痛が定期的に来て、出血している状態でしたが、すぐレントゲン室まで行き写真を撮らされたのでした。それは悲惨な状態でした。途中でやめる訳にも行かずに、ただ流れに従っていくしかありませんでした。レントゲンの結果、何とかいけるだろうとの判断の元に分娩室に戻されました。
台の上で、私は必死で祈りました。「私はどうなっても良いですから、この子を助けて下さい。」と。長時間にわたっての戦いでしたが、その間ずっと、「神様、助けて下さい。」と叫び続けていました。最後の力を振り絞って、やっと生命の誕生を迎える事ができました。「神様、ありがとうございます。」と祈った後、安堵の気持ちと共に私の体はぼろぼろで消え行くばかりでした。産まれてきたのは、3878グラムの大きな女の子でした。本当にただただ恵みでしかなかった娘の出産に、名前を真理恵と名付けました。真理恵は黄だんが強く、退院は少し延ばされました。お乳を吸う力が弱く、難産の為にすっかり体力を消耗してしまった私には、長時間お乳を飲ませている元気がなく、本当にしんどい事でした。
家に帰ってからも、お乳の吸い付きが良くないので母乳もだんだん出なくなり、搾乳して哺乳瓶で飲ませることにし、朝昼晩、お乳絞りに精を出して一生懸命飲ませようと努力しましたが、残すことが多かったのでした。あまり泣くこともせず、寝てばかりいました。
数ヶ月経ってもあまり表情に変化がなく、足のつっぱりも弱いように感じました。色々な機能に遅れがあるので内心おかしいなと思うようになり、当時、養護教員をしていた教会の姉妹の勧めで病院に行き、検査を受け、その結果、左脳に萎縮が残っているという診断を受けました。 そして、その為に精神遅延があるということでした。私たちは頭が真っ白になってしまい、このことをどのように受け止めたら良いのか分かりませんでした。先生の話では、「萎縮は治らないが、他の細胞が駄目になった細胞の替わりをしてくれる可能性はあるので、伸ばす努力が必要です。」とアドバイスを頂きました。その事が希望の言葉となり、主人と私は、「この子の為に私たちは何をしたら良いでしょうか?」と祈りました。先生は治らないと言ったけれど、神様にはできない事は何一つ無いはずだから、癒されるように祈ろうと思いました。
そして、教会の人達にも祈って頂きました。祈りの中で、脳に刺激を与える環境を見つけてあげるように導かれ、早速、児童相談所に行きました。そこで言われた事は、障害福祉センターの療育施設で子供を遊ばせながら機能を伸ばしていったらどうかということでした。
そして、そこに行って説明を聞いているうちに、近くに障害児を受け入れている保育園があるということを聞き、訪ねて見ることにしました。一人の先生が丁寧にお話を聞いて下さり、ハンディのある子供に対する深い思いがあることを感じ、この保育園で預かって欲しいと強く感じてお願いしたところ、「預かりたいが、もうすでに今年の申し込みが済んでいて難しいかもしれないが、一応役所に希望を出して見て下さい。」と言われ、とりあえず手続きを済ませました。その時はすでに二月になっていたので、無理な事だと思い、がっかりして帰ったのを覚えています。
三月に入り、役所から一つの手紙が届きました。中を見ると入所通知の用紙でした。一瞬、目を疑いました。とても不可能な事と諦めていたので、信じられませんでした。神様が「どんな困難と思われるような事があっても、諦めることなく希望をもって生きなさい。」と道を開いて下さった出来事でした。その事は私たちにとって大きな教訓となり、励ましとなりました。
そして、この保育園での生活は、本当に良い機能訓練の場となりました。健常の子供達と共に、泥遊びを中心に個々にふさわしい手作りの遊びをたくさん取り入れて楽しく1日を過ごさせて頂きました。保母も子供達も上から下まで紅茶色になって良く遊びました。自然の中を歩く事も沢山しました。歌を歌いながら季節の木の実を口にして何キロも歩きました。その時に歌った何曲かは、今でも時々口にして歌っています。(メロディーは時々合っていますが、言葉は真理恵語です)中でも体操は、手足の指先を良く使い、脳に刺激が行くような動きを朝晩毎日してくれました。食事も自然食を取り入れて、本当に子供達の事を良く考えてくれる保育園でした。 健常児達は、障害のある子供達に対しても自然体で接して下さり、日ごろからとても良く面倒を見てくれるので、様々な行事には感動的な場面が沢山あり、時々涙した事もありました。熱心なだけに関わりも多く、私達がクリスチャンである事を打ち出す必要が色々な機会にありました。日曜日の行事等、お酒の席、冠婚葬祭等、その他、真理恵にとっては良い場所であっても、私達にとっては戦いの場所でもありました。
初めにクリスチャンである事を表明していたので、礼拝は守るという意思を通させて頂き、どうしてもの時は午後に参加したりしました。父母会の時には、夜が多いのでお酒の席になったりすることもあり、そういう場では主人はお酒をきちんと断り、クリスチャンとしての証しの場として話をしていました。中には数名、真剣に話を聞いてくれる人達もいました。そういった積み重ねが形となり、周りからクリスチャンである事を認めて頂き、色々な事に理解を示して下さる事になったのでした。夫も私も出来るところで一生懸命、園の為に尽くす努力をしました。
慣れ親しんだ保育園を去ることになり、第二の母となって親身に育てて下さった先生ともお別れをする事になりました。園での生活を通して体もすっかり丈夫になり、風邪もひかず、熱もめったに出さなくなりました。真理恵の発達は知的にはとても遅く、身体的には二十歳でも知的にはまだ二歳~三歳位に思えますが喘息も治ってしまいました。
そして、神経が一日に一ミリ伸びると言われているよりももっと遅い速度で成長しているかのように感じられますが、けれども着実に成長しているのは確実です。とにかく動くことが好きで、家ではじっとしている事がなく、あらゆる所に目を光らせ、次から次へといたずらが始まるのです。やって欲しくない事をやる事が多いので、時々ストレスを感じてしまいます。それらが続くと重荷となり、どーっと落ち込んでしまうという事を繰り返していました。
そのような時に必ず引き出されて来る心の問題がありました。それは妊娠中に与えられた心理状態によって、真理恵がこのような状態で産まれなければならなかったものと信じ、夫に対して責める気持ちがあったのでした。しかし、そのような気持ちを持ち続ける事は私にとっても辛い事でしたが、どうしてもそこから抜け出す事ができずに、重い気持ちを引きずっていました。ある時、聖書を開いていると一つの御言葉が目に入ってきました。それは、
ヨハネ9章2節~3節、『「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」』
という御言葉でした。
その時、私はずっと抱えていた思いから解き放たれたような気がしました。そして夫に対する思いを悔い改め、ありのままを受け入れて育てていこうと決心しました。その後、真理恵は養護学校に行き、そこで十二年間生活をしました。その間、様々な事がありました。何度も行方不明となったり、車にぶつかったり、高い所から落ちたり、焼けどで大怪我をしたり(痛みが鈍いために気が付いたときには重傷になっていることがあった)、ガラスを割って怪我をしたり、数えたらきりがないほど危険な目にもあいましたが、その度に神様の御手に守られている事をひしひしと感じるのでした。
そのような守りの中で、真理絵はすくすくと育っていきました。笑顔で生き生きと輝いています。真理恵に関わって下さった先生や指導員の方達からは、「真理恵ちゃんのかわいい笑顔、笑い声、ことば、すねっぷり、照れっぷり、そのすべてが元気のもとです。」と言われ、「周りをいつも明るくしてくれる」と言って温かく見守って下さいました。そういった事も神様の栄光を現す事なのかもしれないと思い、癒されて欲しいという願いと障害を持ったままの娘の存在を肯定する思いが二分しているような状態ですが、後者の思いが強くなってきているように思います。そういう訳で沢山の恵みを受けながら育ってきた二十年、神様が共にいて下さり、いつも守っていて下さっている事を思い、心から感謝しています。
現在は近くの福祉センターにお世話になっていますが、これからが長い道程の始まりとなります。現在の状況は決して満足のいくものではなく、かえって不安や戸惑いばかりを感じることが多く、果たしてこのような環境が良いものかどうか、いつも頭から離れません。障害者にとって、どうしたら一番良いのだろうかと思案したり、それらを行動に移しても何ら変わることがなく、思いを訴えても一方的で終わってしまう事が多く、気落ちしていくばかりです。
真理恵にもストレスが加わり、それらを家で発散しますので、対応に疲れ果ててしまいます。障害をもっている人達は、誰かの助けがなくては生活していけません。その助けは誰でも良いのではなくハンディキャップを持った者を一人の人格をもった者として接し、真実の愛情を注ぐことの出来る人達であって欲しいと思います。
願っている事は、クリスチャンの人達が主体となった場所で過ごせたらといつも思っています。また、形に出来たら良いなと思う気持ちもありますが、なかなか具体的にする事ができません。人はそれぞれ違う種を持ち、やがてその花を咲かせるために産まれて来るわけですから、障害者も素晴らしい花を咲かせ、自分らしく生き生きと輝いて生きていける場所が与えられる事を、私だけでなく多くの人がそらんじていると思います。
そのために、自分に何が出来るのか、何をしてやれるのか、祈っていかなければならないと思っています。一緒に祈って下さる方、重荷を負って下さる方がいらっしゃるなら感謝です。今後も娘の成長を温かく見守って下さいますようよろしくお願い致します。