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お子さんが召された(亡くなられた)方々

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない (マタイ 12:20)

○小さな宣教師

鹿毛 独歩師(港北ニュータウン聖書バプテスト教会牧師)

 人の人生には突然の出来事というのがあります。たとえ、神様のご計画があったとしても、永遠を知る事ができない人間は直面した出来事の意味をすぐに悟ることはできないのです。それが苦しみであればあるほど。
 1988年6月17日、娘が総合病院から子供専門病院に転院して2日目、医師の診断は「急性リンパ性白血病」と言うことでした。思っても見なかった厳しい診断に私達は言葉を失い、ただ涙がとめどなく流れ「助けてやってください」というのが精一杯の一言でした。

-娘「永遠」-
 娘の名前は「永遠(とわ)」、1985年4月3日我が家の第三子として誕生しました。笑うとなくなる細い目はお父さんにそっくり。いつも笑顔のかわいい元気な女の子でした。彼女が生まれる1年前、教会で宣教集会がありました。その時、私は神の招きに答えて、6年間の福祉施設での仕事を辞めて伝道者となる決心をしていたのです。「永遠の神様に全てを委ねて、永遠のいのちの福音を伝える者となる」との思いを込めてつけたのがこの名前でした。その年の9月、私は日本バプテスト聖書神学校に入学、住んでいた横浜から神学校のある千葉まで通学生としての学びが始まりました。妻の祈りと3人の子供達の笑顔に支えられ、毎日4時半起きの通学も3年間守られました。1988年6月3日神学校を卒業、大きな感謝と喜びを頂きました。これからいよいよ開拓伝道、主にある大きな希望にあふれた時でした。

-第1の試練-
 しかし、神様は私たち家族に開拓伝道者としての第1の試練を与えられました。卒業式の3日後、気になっていた娘のお腹を見てもらうために病院に行きました。娘のお腹が数週間前から、空腹時でもパンパンに張っていることを家内が心配していたからです。2日後のエコーでの腹部検査、そして続く検査入院に小さな不安を感じていました。検査入院の途中容態が悪化し、急きょ子供専門病院に転院することになりました。そこでの診断が「急性リンパ性白血病」でした。「これから本格的に開拓伝道に取り組もうとしているのに、主よ何故ですか。」この主への問いかけが私の中に大きく響き渡りました。3歳になったばかりの娘が病院に一人残されてのつらい治療、泣き叫んでいた彼女の顔から涙も笑顔もなくなるのには何日もかかりませんでした。
 横浜の港北ニュータウンでの開拓伝道の働きが始まった8月、娘はつらい治療を乗り越えて伝道所となった我が家へ帰って来ることができました。主は開拓伝道の働きのために、大きな慰めと励ましをくださったのです。検査上では悪い細胞を見つける事ができない「寛解(かんかい)」という状態を維持しての1年半、彼女は私たちと一緒にチラシ配布や訪問伝道についてきました。背伸びをして、自分の背よりも高いポストに教会案内を入れ、かわいい助け手として奉仕してくれました。訪問に行っても、彼女のかわいらしさは訪問先の方の心を開いてくれました。彼女の元気な姿に、すっかり良くなったと感じ始めていた私たちは、保育園入園の準備を始めていました。

-骨髄移植へ-
 保育園入園の希望にあふれていた私たちに第2回目の試練がやってきました。それは「再発」という一番恐れていた事態でした。保育園の園服の寸法とりからから帰ってきた家内のもとにあったのは、前日の定期検査の結果についての連絡でした。「悪い細胞が増えています。」身も凍るような「再発」の知らせに目の前が真っ暗闇になるような錯覚に陥ったのです。保育園に行ける喜びに輝いている娘のどこに悪い細胞があるのだろうか。私たち夫婦の心は悲しみで引き裂かれそうでした。しかし,娘は病院の再入院が決まってからは保育園の話をしなくなりました。数回の治療をしても容態は改善しません。最後の治療は骨髄移植しかありません。骨髄移植のためには白血球の型(HLA)が合うドナーが必要でした。白血球の型が合致する確率は兄弟で4分の一、血縁以外だと1万分の一と言われていました。幸い一番上のお姉ちゃんと白血球が合致し、骨髄移植の手術が行われました。放射線と強い抗がん剤の治療で体全体がボロボロになりながら,5歳の娘のいのちはその闘いを越えたのです。
 彼女は病気や痛い治療に対しても、決して不満や愚痴をこぼすことはありませんでした。常に与えられた場所で闘い続けたのです。ただ一度、母親に「かえっちゃいやだ」と泣いてせがんだことがあります。よほどつらかったのでしょう。「とわちゃん、お母さんまた明日くるからね。」母親に抱きついて泣いていた娘は「おいのりして、おいのりしたら、かえっていいよ」と涙をぬぐったそうです。
 それから3ヶ月、移植後の退院がやっと許されました。家族が待ちに待った時でした。家族が一緒に食卓を囲む平凡な日常生活がどんなに大きな恵みであるかを感じさせられた時でもありました。

-再々発-
 第3の試練は2度目の再発です。骨髄移植後の再発はそれ以上の治療がないことを意味しています。最後まで家族とともに家で過ごすことにしました。私たちの最後の祈りは「6歳の誕生日まで生かしてほしい」ということでした。確か、その年は3月31日がイースターでした。「とわちゃんも、しゅうかいにでたい」教会の2階の部屋で寝ていた娘は、寝ながらもイースターの喜びのメッセージを聴いていたのです。1991年4月3日、6歳の誕生日の日、すでに意識はありませんでしたが、彼女の心臓は力強く脈打っていました。4月4日午前2時45分、彼女は主の待っておられる天の御国へと帰っていきました。私たちはその瞬間から、これまで教会学校で子供たちに教えてきた天国の存在をはっきりと感じることができました。

-また会う日に-
 多くの祈りに支えられた3年間でした。しかし、この3年間が私たちの伝道の土台、伝道の力となっています。「大人になれない子供たちがいる。」家内が病院の子供たちのために何かできないかと祈り始め、与えられた素話(すばなし:ストーリーテリング、語り聞かせ)の学びが、今病院内でのお話し会として地域の子供たちの子供文庫活動にと広がっています。主は多くの試練を通して、私たちを開拓伝道者にふさわしい器としてくださったのです。娘が小さな宣教師として、いのちをかけて開いてくれた病院伝道への道、地域の子供伝道への重荷をしっかりと受け止めながら、私たちに許された日数の中で、心から主にお仕えしていきたいと願っています。天の御国で再び娘の永遠と会う時に、主の御前で共に喜ぶことができるように。

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○救いはすばらしい

濱谷 勉師(瀬戸聖書バプテスト教会牧師)

 誕生日のお祝い 
 ここ2年続けて、長男栄の誕生会をしました。亡くなった子どもの誕生会をすることは普通考えられないことです。でも、栄は私たちの心の中に生きており、天の住まいで生きていますので、誕生会をすることにしたのです。小さな誕生ケーキを前にしながら「栄君、誕生日おめでとう」と涙しながら祝福したのです。亡くなって3年が過ぎ、ようやくそのようなことが出来るようになりました。そして、文章に表すことが出来るようになってきたのです。立ち上がるために時間がかかるものです。

 米国への道 
 彼は中学生時代まで、友達に恵まれ、サッカー大好き少年で活発な子どもでした。一方、自分の信仰や進路のことで悩んでいたようです。あまり親に話すことはありませんでした。高校受験を目前にして、「アメリカに行きたい」と言い出したのです。留学のために何をしてやれるというのでしょうか。親の経済力の問題がありました。彼の英語力の問題もありました。知り合いもいません。あきらめるしかない状態でした。そんな中、知り合いの宣教師の紹介で、家族待遇で引き受けてくださる牧師夫妻が現れたのです。小規模ながら、クリスチャンスクールを持っていてその高校で学ぶ道が開かれたのです。まことに大きな神様からのプレゼントでした。

 献身と日本宣教の重荷 
 これまでの過去を捨てて「絶対、牧師にはならないよ」と言い捨てて、海を渡っていった息子。半年ほどしたある日、電話がかかってきて「お父さん、僕、献身したよ」と言ってきた時の驚き。主は彼の心を変えてくださったのです。高校を卒業し、神学校に入学。そこで知り合ったレイチェル姉と結婚することになりました。彼女は日本に関心を抱いている人でした。あるカンファレンスで説教者は「米国にもっと多くの働き人が必要だ」と訴えました。その時、長男の心に迫るものがあったといいます。「こんなに沢山のクリスチャンのいる米国でもっと働き人が必要だというなら、日本はどうなるのか」と。彼の心に日本宣教の重荷が与えられた瞬間でした。

 病気の発症 
 神学校を卒業し、結婚して間もない妻レイチェルを伴って日本にやってきました。米国留学でお世話してくださった宣教師の教会留守を1年間するためでした。日本語が分からず、生活習慣の分からぬレイチェルでしたが、教会の人たちはとても良くしてくださり、恵まれた奉仕をさせて頂いたのです。奉仕期間中、長男高基が誕生しました。奉仕期間が完了し、帰米することになりました。少し前からしばしば頭痛がするということでしたので、帰米の前に念のために検査を受けることを勧めました。レントゲン検査の結果を本人たちと私たち親も付き添って聞きに行きました。フィルムに白い影が映っていました。「腫瘍です。良性か悪性か分かりませんので再検査しましょう。」と医師。良性であることを祈りました。結果は悪性の脳腫瘍だったのです。「先生、完治しますか?」と私。「完治しません。すぐ手術しましょう。」と非情な宣告。いろんな思いが駆けめぐりました。いよいよこれからと言う時に、2人の思いはどんなであったでしょうか。

 闘病生活の中の恵み 
 しばらく親元で治療に励みました。しかし、レイチェルの言葉の問題などもあり、米国に帰って治療を継続するのがよいと判断しました。最初はラスベガスのレイチェルの両親の近くで生活しました。トレーラーハウスの生活でした。後半はサンディエゴの親戚のもとに身を寄せて治療に励みました。主は良くしてくださいました。保険の利かない米国の治療費の高さは聞いていたもののびっくりしました。ある時電話がかかってきました。「お父さん、手術入院ですごいお金がかかりそうだ」と。「いくらぐらいなの?」「数百万円…」祈るしかありませんでした。なんと、不思議な形で公的支援の道が開かれたのです。また、すばらしいことに治療中にもかかわらず、第2子(次男賢人)が与えられたのです。2人はある時、主の前に約束したと言います。「もうこれからは『どうして?』と主に問うことは止めよう」と。回復の兆しを感じながら希望を持って療養していました。お世話になったペンシルバニヤの教会において、宣教師としての按手の恵みにも与りました。

 家族との再会 
 3度目の手術も成功し、「ここしばらく心配ないでしょう」との診断でした。安心しました。しかし、しばらくしてMRIの検査の結果に衝撃が走りました。再発でした。そして、もう治療の選択肢が無いという話でした。彼は覚悟したのでしょう。「日本に帰って、みんなに会いたい」と電話がありました。「それは無理だから、こちらから行くよ」と返事しました。2002年7月末、両親、兄弟たちがサンディエゴに集合しました。言葉が発しづらくなり、苦しい中にも会話が出来、食事やドライブなど外出も出来ました。2人の幼子のことや、翌年決まっていた全国青年キャンプ講師奉仕のこと(これは、2人にとって大きな励ましでした)もあって、本人も私たちも希望を主につないでいたのです。この地上での別れになると思わず、家内をひとりおいて、ほかの家族は日本に帰ってきたのです。

 最後の入院 
 家族が日本に帰った直後から長男の容態が悪くなり、入院することになりました。家内がレイチェルと共に付き添いました。抗ガン剤治療を試みるも効果はありませんでした。英語も日本語も出てこない状況の中で、ある日突然、少しの時間、言葉が自由に話せるようになったのです。家内と息子は喜びにあふれて主を賛美しました。苦しい場面の続く中での恵みのひとときでした。息子の口から、つぶやきの言葉でなく、喜びの言葉を聞くことができたことは限りない慰めです。「お母さん、救いはすばらしいね」3週間ほどの入院でした。8月20日、静かに天に凱旋しました。28才の若さでした。

 喪失感と慰め 
 子どもを先に失うことの悲しみ、喪失感は、言葉になりません。家内は今も完全には立ち直っていません。確かに再会の希望は大きくあるのですが、喪失感は簡単に無くなりません。何故、主がかくも早くお取りになったのか分かりません。ただ、分かることは、主は信じる者に一番よいことをなさると言うこと、息子は主に特別に愛されていたと言うことです。多くの人に祈られるすばらしさを味わいました。御言葉の迫り来る力を知りました。天国が近くなりました。最後まで、信仰に生き抜いた息子を誇りに思います。救いを喜び、福音を伝えようとした息子を誇りに思います。近い将来、彼に再会できることを待望します。また、彼の果たせなかった志を果たしてくれる働き人が起こされるように祈ります。最後に、彼が最後の説教のテキストとして選んだ聖句を記します。
「とこしえにいます神は、なんじの住みかなり。なんじの下には永遠の腕ありて、なんじを支えたもう。」(申命記33:27)

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○神の道は完全

ジュディ・マスク(忠和聖書教会牧師夫人)

 「マスク夫人、女の子ですよ。」1961年に長女のペギーが生まれた時に聞いたこの言葉は、どんなに嬉しかったことでしょう。夫と私は初めて彼女を抱いたとき、こう祈りました。「主よ、このすばらしい贈り物に感謝します。あなたの代わりに育てるようにと、あなたは私たちにこの子を預けて下さいました。私たちを助け、この子の心に働いて、娘が若い日にあなたを救い主として信じるようにして下さい。私たちはあなたにこの子をおささげしてお返しします。この子の人生にあなたの完全なみこころを果たして下さい。」
 私たちには4人の子供がいます。ペギーは最初の子でした。彼女は4才の時にクリスチャンになりました。快活で人なつこい子でした。子供たちが日本に来たのは、1970年、私たち夫婦が宣教師として来日したときでした。ペギーは日曜学校を教え、ピアノを弾き、裁縫や手芸がすきでした。一生懸命働き、何をするにも心を込めてする娘でした。
 ペギーはアメリカのクリスチャンカレッジに行き、そこで夫となるマシュー・ヘンリーに出会い、1984年、卒業から7ヶ月後に結婚しました。ペギーは高校で事務の仕事を5年間してから、クリスチャンスクールで教え始めました。彼女は子供たちのために働くのが大好きで、生徒たちの多くはまるで彼女の本当の子供のようになりました。彼女は子供がとても欲しかったのですが、夫婦で祈り、10年間待って、やっとポールが生まれました (1994年)。この祈りの答えに、彼らはどんなに喜び、神様に感謝したことでしょうか。二人は「神の方法での子育て」という講義を受け、多くを学び、友人を誘うようになりました。教会や学校でのピアニストとしての働きも続けていました。
 1996年の3月、娘から電話がありました。「お母さん、お父さん、私の首に腫瘍が二つ見つかったの。バイオプシー (生検) を受けるわ。」バイオプシーの結果は陰性でしたので、皆「良かった。」と思いました。しかし看護婦である2番目の娘は電話をしてきてこう言いました。「バイオプシーが陰性だったからといって、腫瘍が癌でないとは言えないわ。バイオプシーで採られた部分の組織が癌ではないということでしかないのよ。」腫瘍は頸動脈を圧迫し、急速に大きくなっていたので、早く取り除く必要がありました。私は手術の前に娘家族と一緒にいるため、アメリカへ行きました。私たちは腫瘍が良性であることを期待し、また祈っていましたが、それは神のご計画ではありませんでした。医師は手術から出てくると、腫瘍は癌であり、ペギーはリンパ腫だと告げ、彼女の癌治療の計画を立てるために、その日の午後に癌専門家に来てもらうようすでに手配したといいました。私は娘たちと一緒に6週間いましたが、それから旭川に働きのため戻らなければなりませんでした。化学療法を受けている間も、ペギーは人々が子育てにおける大切な聖書の原則を学べるようにと地区集会を開きました。教師や教会ピアニストも続けました。大学での教師としての修士課程も取りました。治療は順調だったので、彼女は癒されると私たちは期待し祈っていました。 1997年1月、また電話がありました。「お母さん、お父さん、また二つ腫瘍が見つかったの。」医師はすぐに手術の手配をし、結果はまた「癌」でした。リンパ腫はとても速く進行していたので、2月12日、私たち夫婦はアメリカに呼ばれました。彼女の肝臓はわずかの間にほとんど全体が癌で侵されていました。主人の誕生日である2月15日、私たちが行くまで彼女が持ちこたえられるかどうかもわからなかったのですが、私たちは飛行機に乗りました。おまけにその頃、2番目の娘にもしこりが見つかり、私たちがアメリカへ向かっている間に検査を受けることになっていました。3番目の娘はまもなく出産するはずでしたが、ダウン症の赤ちゃんの可能性がありました。息子は1学期間大学を休んでいました。私たちの望みと慰めは、神にありました。神が私たちにしばらくの間子供を与えて下さいましたが、子供たちは最初から神のものです。神様は私たち夫婦に対してと同様、一人一人の子供たちに完全なご計画をお持ちでしたし今も持っておられます。神のかたちに造り、練り、金のように純粋にするため、神は私たち一人一人の内に働いておられます。傷つけるためではなく私たちを助けるためです。神は私たちをとても愛して下さっていますから、一人一人に一番の最善を願っておられます。困難なときが来ても神は私たちと共にいて、支え、慰めて下さいます。求めるなら、神が働いておられるのがわかるのです。癌専門家はペギーの命をしばらく延ばせるのではと、化学療法を始めました。
 ペギーが家族に宛てた手紙を紹介させて下さい。私たち夫婦が彼女の病床に着いてから数時間後に、ペギーが妹に口述で書き取らせたものです。「これは夢でしょうか…いえ、現実です。私にはわかっています。私は癌です。自分が癌であることを知っています。
『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(Ⅰコリント 10:13)
 神は私を造られました。ご自身に似せて、ご自身のかたちに。神は私の人生にご計画をお持ちです。そのご計画が何であるのかを問うのは、私のすることではありません。私に何が起ころうと、それが神のご計画の一部であることを私は知っています。
 ポールのことが一番心配です。なぜ神が、ポールと母親を離ればなれにすると決められたのか、私にはわかりません。マシューを助けて、ポールを育てられたなら、と思います。けれど神には別のご計画があるのですから、これも良いのです。マシューはすばらしい父親です。彼がポールを立派に育てることが私にはわかっています。
 ポールがみこころのように育つためには、私は天国にいる必要があるのだと神様はご存じなのです。ポールはすばらしい男性になり、私は天国から彼の成長を見てきっと満足するでしょう。
 私は死ぬことは恐くありません…死に至るまでのことに少し恐れはありますが。神はすべての道で共にいてくださり、私が耐えられないような試練はお与えになりません。お母さんとお父さんがここにいてくれるのがとても嬉しいです。もう私は行くのでしょうか…いえまだです。もうすぐでしょうが、まだです。」
 ペギーはその後、6月13日まで持ちこたえました。神は彼女の心に、日々必要な平安を与えて下さいました。彼女は生きたかったでしょうか。ポールを育てたかったでしょうか。マシューのそばに残りたかったでしょうか。もちろんその答えは「はい。」です。しかしそれ以上に、彼女は神の完全なみこころが自分の人生になされることを望んだのです。ある日彼女はこう尋ねました。「なぜ私が (こうならなければならないの)?お父さん。」何という難しい質問でしょう。多くの人は、両親が宣教師で神に仕えていて、ポールは彼女たち夫婦にすばらしい方法で与えられたのだから、きっと神様は彼女のいのちを助けてくれる、と思っていました。主人の答えはこうでした。「なぜおまえではいけないんだい。おまえは特別かな。神様は私たちを特別扱いしなければならないのかい。神様の道は完全で、私たちは神を愛し信頼しなければならないんだよ。」神様は彼女を癒すことを選ばれませんでした。その代わり、彼女に平安と慰めをお与えになりました。また、他の多くの祈りに答えて下さいました。神様が答えて下さらなかった祈りは、ペギーが癒されるようにということだけです。リンダのしこりは心配ないことがわかりました。マーリンの赤ちゃんは全く健康でした。ジョナサンは大学に戻りました。神様は2度も満席の飛行機に2つの座席を与えて下さいました。祈りの答えはまだまだあります。教会の主にある家族は、私たちのために6ヶ月間ほとんど毎日食事を用意してくれました。何という助けであり恵みでしょう。
 もしかしたらペギーが天の住まいに行くことになったのは、彼女の生徒たちが特別に動かされるためだったかもしれません。あるいはアメリカの彼女の教会の人々や、旭川の教会の人々が、他の方法では学び得ないことを学ぶためだったのかもしれません。私たちには神様の計画は完全にはわかりません。まさしく聖書が「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」(Ⅰコリント 13:12) と言っている通りです。ペギーはずいぶん苦しみましたが、一言も愚痴を言いませんでした。化学療法の間の3ヶ月間は元気を回復し、私たちはリンパ腫が鎮静化したのかと期待しました。しかし6月の初めに、そうではなかったことがわかりました。私たちはまたアメリカに呼ばれました。「急いだ方がいいです」と言われました。私たちができるだけ早くアメリカ行きのチケットが欲しいと言うと、それはちょうどアトランタオリンピックの直前でしたので、旅行代理店の人は笑って言いました。「一週間ぐらいしたら手に入るでしょう。」私たちは「そんなに待てません。」と言いました。私たちは飛行機の座席のために、神に祈り求めました。私は荷造りを始めました。その2時間後には、私たちは、翌日の搭乗が決まり、再入国許可を得るために札幌に向かっていたのです。
 私たちは火曜日の夜アメリカに着きました。その日の朝ペギーは家の階段を歩いて降りていたのですが、午後にはもう歩けなくなっていました。木曜日には、まもなく天国へ行くことがはっきりしていました。その日一日、彼女はいろいろな昔のことを思い返していました。私たちが彼女のベッドの周りに立って、賛美を歌い聖書を読んでいるとき、彼女は天国の主のもとへ行きました。「神様、私の子供をとらないで下さい。」と神様に言えるでしょうか。私たちは彼女を、神様のみこころがなされるためにおささげしたのです。それは、私たちが35年前にした約束を神様に果たすときでした-文字通り、彼女を神にお返ししたのです。私たちは神の喜びのために造られた、と聖書は言っています。神は「園丁がしら」とでも言えるでしょう。自分の庭の花を、自分のもとへおくために摘み取る権利をお持ちなのです。神は、ちょうど良いときに選ぶ知恵と愛をお持ちです。花の中にはつぼみのものもあれば、開き始めたものもあり、満開のものもあれば衰えて枯れたものもあります。選ばれるのは神です。そして神は残された者の心も慰めて下さいます。
 1997年の父の日、夫と私はペギーの棺のそばに立ち、私たちを励まし慰めに来てくれた人々に挨拶していました。夫の思いはこうでした。「ああ、私の誕生日、私たちは着いた時にペギーが生きているかどうかもわからずに飛行機に乗りました。けれど、神は数ヶ月、彼女のいのちを長らえさせて下さいました。この父の日、私たちは彼女の棺のそばに立つこととなってしまいました。」しかし、教会の主にある家族やペギーを知る人々が来て、いろいろな面からペギーのことを話してくれました。ペギーがどんなに彼らを助けたか、彼女の生き様にどんなに恵まれたか、教会でのピアノ演奏にどんなに恵まれ、なすことすべてに心を注ぐ彼女の姿を見てどんなに嬉しかったか、彼女が心から愛する主にどんなに仕えたか、などなど。突然主人は気づきました。「ああ、天の父なる神様。何とすばらしい父の日の贈り物を下さったことでしょう。本当に多くの人が来て下さり、娘が彼らにとってどんなに祝福であったかを話して下さいました。私たちが娘に子供の時教えた聖書の原則を、彼女は日々の生活で実践しました。父よ、感謝します。これは父の日に私たちに与えられた最高に尊い贈り物です。」
 次の日、私たちは賛美集会を持ちました。この集会が、集った人々にとっても、マシューやポール、そして私たちにとっても、癒しの始まりとなるようにと祈りました。その通りになりました。神様は本当に多くの祈りに、多くのすばらしい方法で答えて下さいました。神様がして下さったことを、どうしてほめたたえずにいられましょう。私たちにとって大きな助けとなったのは、今はペギー自身が人生に対する神の完全なご計画を理解している、ということでした。天国へ入った瞬間、すぐにわかったはずです。彼女は「なるほど。」と言ったことでしょう。私たちにも、神様はご自身の時に明らかにして下さるでしょうから、満足しています。それは、天国へ行くまで明らかにならないかもしれません。けれど神様は間違いをなさいません。神様は私たちを永遠の愛で愛して下さいます。私たちにとっての益や究極的な祝福とならないことは、何一つなさいません。私たちはペギーがいなくて淋しいでしょうか。もちろんです。まだ時々涙を流すでしょうか。ええ、そうです。けれど私たちは、神様がすべてを益として下さるので、満足しています。神様の道は完全です。
 私たちは旭川で宣教師としての働きを続け、そこの人々も救われて「人のすべての考えにまさる神の平安」(ピリピ 4:7) を知ることができるようにと伝道しています。マシューとポールは、伴侶を亡くしまだ幼い子供がいる人々のための働きを始めました。神様がどのように彼らを助けて下さったかを書いたカードや証しを送り、子供たちに小さな贈り物をしています。同じ様な痛みを持つ人々のために働くことは、彼ら自身の痛みを和らげる助けともなっています。聖書では「互いの重荷を負い合う」(ガラテヤ 6:2)よう言われていますが、彼らにとってはこれが助けとなっています。
 あなたも同じ恵み、慰め、喜び、そして日々必要なものを、救い主キリストの内に見いだして下さるようにと私たちは祈っています。キリストは、あなたが人生で困難に出会うとき…実はその困難も神が許されたものなのですが…あなたを永遠の愛で愛しておられます。キリストのもとへ今、走り寄って下さい。ためらってはなりません。キリストはあなたの心の必要を満たして下さいます。もしあなたがまだキリストを自分の救い主としていないなら、ためらわず受け入れて下さい。キリストはあなたの助けとなりたいと願っておられます。あなたを愛しておられます。なぜですか。「神は愛」だからです。

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