身体障害
彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともない (マタイ 12:20)
○脱出の道を備えてくださる主
入江義雄師(御代田聖書バプテスト教会牧師)
振り返ってみるとそれは約4年前の1999年6月18日の交通事故でした。オートバイで家庭教師の生徒を教えに行く途中でした。北海道北広島市、すずらん聖書バプテスト教会で奉仕の機会が与えられ、その働きが祝され順調に守られている中で突然起こりました。意識が戻るとそこは集中治療室でした。はじめは自分がどういう状況にあるのかがはっきりせず、次第に激痛と断片的な事故の状況が脳裏にスライドのように映し出されました。
すぐそばにいる数人の医師はもう危険な状況であるという会話をしており、「もう命が危ないのですか?」という質問に対しても沈黙していることから、いよいよ自分の死がすぐ隣に近づいている事態を突き付けられました。すぐ私の心には激しい動揺が駆け巡りました。「自分がどうしてこんな事故に?」「まだ伝道者としての歩みが始まったばかりなのになぜ?」という思いと共にはっきりと、今日生きるのも死ぬのも神様の御手の中にあることが示されました。
動揺と混乱の後に、聖霊の豊かなあわれみによって、また駆け付けてくださった先生方との祈りと御言葉により、不思議なほどの平安と主のもとへ行く喜びが与えられたことは今でも忘れることができません。
その時、死に対する復活の勝利をおさめられた主イエス・キリストを信ずる者にとって、死は終わりでなく神様の一方的な恵みの御国への玄関であることが鮮明に映し出されました。平安の中で天の御国へ行く決心が与えられ、手術室に向かう途中駆け付けて下さった先生方や親戚の方々に御国での再会の思いを込めて手を振りました。ところが意識が戻ると、そこは集中治療室であり酸素マスクがしてあったので愕然としました。
すぐに執刀医が来られ「わたしは神を信じないけれど、今回のことは医学的にも説明できないものであなたの信じている神様が守ってくださったとしか説明のしようがない」と言われました。症状は大動脈の破裂、右足の脱臼と大腿骨股関節骨とうの骨折でした。普通は大動脈が破裂すれば出血多量で即死する場合がほとんどであるとのことでした。ところが私の場合は大動脈の血管である内膜、中膜、外膜が破裂し左の肺に血が溜まっていたにもかかわらず出血が止まったことは驚くべき恵みでした。約2cmの人工血管置換手術においてもぎりぎりの縫代が与えられました。全ては主の大いなる御業(みわざ)でした。
平安の中で一度死を覚悟した者でしたが、まだ生かされていることで驚きと喜び、感謝が与えられながらも、次第に「いったいどこまで回復できるのか?」「後遺症はどのくらいですむのか?」等という思いが激痛の入院生活の中で押し寄せて来ました。
尚、事故の相手側の方がお見舞いにこられた時には「自分を責めないで下さい。私は何も怒っておりませんし、許しますので、安心してお帰りください。今度ぜひ教会にお越し下さい。」と心から伝えましたが、その夜中には麻酔も効かず激痛の為に一睡もできず、自分の心の中は次第に「なぜ彼は交通ルールを守らず信号無視をしたのか?」「彼がしっかりと運転していれば自分はこんな痛い目に遭わずに済んだのに。」「こんなに痛く苦しいならすっきりと天に召されていた方が楽だったのに。」という思いが強くこみ上げてきました。
自分が相手を赦せていないこと、そして自己中心的な思いが現れてきました。しかし、主イエス・キリストが究極の激痛と自分の死を間近にしながら、しかも嘲りと罵りを受けながら『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカ23:34)と語られた御言葉の深さとはかり知れない神の愛を改めて教えられました。
約2ヶ月半の痛みと苦しみの伴う入院生活も日々の御言葉と敬愛します皆様の祈りによって支えられました。
無事に退院し、少しずつ普段の生活と教会での働きに戻りつつある時に、また思いがけない試練が襲いました。それは祝福された特別集会の翌日のことでした。朝刊の交通事故による死亡記事を読んで全身が凍りつきました。それは私の事故と同じ相手方が再度事故にあって亡くなられた記事でした。何度もその記事を読み返し問い合わせた結果、同一の人でした。しばらくその出来事を受け入れられず、精神的なショックと苦痛で夜もあまり眠れない日が続きました。
しかし、その言い様もない悲しみの中にあっても主は日々、私を見捨てることなく御言葉と祈りの交わりを通して支えてくださいました。その後の大きな慰めは、教えに行く途中事故にあってしまった家庭教師の生徒が教会へ導かれて救われたことです。当時は高校受験生でありましたがバプテスマへと導かれ、4年後の現在は大学受験の中でも教会生活が支えられていることは大きな励ましです。
今日から事故までの約4年間を振り返ると、それは祝福と試練がいつも交互に縫い合わされているような歩みでした。しかしそのすべては主の御栄光と御力が現されるためであった事を確信しております。特に祝福と恵みは自らの信仰によるものではなく、ただ主御自身のあわれみとむしろ主の栄光が明確に現されるためになされたものであります。
『この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』(Ⅰコリント1:28,29)
そして、この4年間いつも主は試練と共に脱出の道を備えて下さいました。まだ私は伝道者生活が始まったばかりの経験の浅い者です。今後も世の終わりの時代にあって主の栄光の為に熱心に働けば働くほど試練の道を更に通らされることと思いますが、忠実に自分の走るべき行程を走り尽くし天の御国へ凱旋された信仰の先輩方の後に倣う者とされることを祈り願っています。
最後にもう一度、敬愛します多くの先生方ならびに兄弟・姉妹方が深い愛の祈りによってこの者を支えて下さったことを心から感謝申し上げます。
○主と共に歩んで
荻野眞理子姉
小学生の頃から、母のお手伝いや厳しい訓練が始まりました。1・2年生の時は雑巾がけできちんと出来ていなかったり、いい加減にしていると、母は見ていて必ずやり直しをさせられました。3・4年生の頃から、食器洗い、又おやつはリンゴや梨などナイフや包丁を使わないと食べられないような物を与えられました。5・6年生になると、ガスを使っての料理や様々な日常訓練へと変わって行きました。同級生たちはほとんど全員そのような事は全て家族がしてくれると話していたので、「何故私だけ・・・」と思いました。不平不満を言いながらしていた時、「お母さんがいなくても困らないようにしているのよ。」という母の言葉を理解する事が出来ませんでした。
中学生の頃から、私の心の中は不安と悩みで一杯になっていきました。まず、将来への不安。特に視覚障害ということで周りの人たちに迷惑をかけるだけなのだから死んだ方が良いのではないか・・・。2つ目は、学校の先生や友達との関係。特にいじめの問題で登校できなくなった事がありました。人前に出て何かを発表したり、意見などを言う事が苦手で、人との距離をおき殻を作ってしまう者でした。3つ目は、通学途上で度々見知らぬ人から「あなたが見えないのは、両親や先祖が悪い事をしたから。あなたの両親が光を見れば見えるようなる。」と言われ、疑問を感じました。
中学3年生の時、学校の帰り道で1枚のチラシを頂きました。家に持って帰り母に見てもらったところ、高校生の伝道集会の案内でした。先の三つの答えが欲しいと思っていましたので、集会に連れて行ってもらいまいた。その時のみ言葉は、『しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私達に対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5:8)でした。一般的に人は悪いと知りながら嘘をついたり陰口を言ったりしているのだから、罪人って言わなくてもいいのに・・・と思いました。疑問を感じながら、教会へ通っているうちに、イエス・キリストを信じない事が一番の罪であり、不幸である事を知りました。『人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。』(ローマ10:10)により、イエス様を信じました。そして、視覚障害という事も『この人が罪をおかしたのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。』(ヨハネ9:3)から全て神様のご計画の内にあり、この障害をも生かして下さる事を知りました。
高校生の時、初めて両親のもとを離れ大阪の盲学校の音楽科で学び、寄宿舎で生活しました。そして現在の教会に導かれました。兄弟姉妹のお祈りに支えられ、メッセージや交わりの中で信仰生活に必要な事を沢山教えて頂きました。その後、東京に帰り、生活する上でその事は大きな支えとなりました。'95年11月に結婚し、三重県鈴鹿に引越しました。因習の強い土地、生活環境の変化、そして主人の両親と同居という事で不安になりましたが、神様は必要なところで助けと知恵を与えて下さいました。そして、何も分からず足りないこの者に主人の両親や妹家族は愛をもって暖かく接してくれた事も大きな支えとなりました。'99年3月に主人は病気のため天に帰りました。近所にはお寺や神社がいくつかあるので、「教会での葬儀を両親は許してくれるかしら・・・」と心配になり、祈りました。すると、主人の父が「教会の先生に葬儀をおねがいしたから。」と言ってくれました。慰めを受けつつ、牧師や兄弟姉妹に教えて頂きながら準備しました。前夜式・告別式は証しの時となりました。主人の父は、「分骨して納骨する事を考えている。それは、正典が家族と同じ所に入れて欲しいと思っているだろうし、入れて欲しかったと言うと思う。」といったので、私は主人が元気だった頃、葬儀についてよく二人で話し合った事があると言いました。そして、「もし僕が死んだら、両親は家族と同じ所に入れたいと言うだろうから、その時は教会墓地に入れてくれるように」と言われた事を話しました。両親はすぐに理解し、自治会長や頼んでいたお寺にその事を話しに行き、「そうする事が一番いい」と言われたと話してくれました。牧師、教会役員、主人と親しく交わって下さった兄弟姉妹、ともに過ごした家族で納骨する事が出来ました。死後、天国に挙げられ先に帰った主人や友と再会出来る事、永遠の身体に変えられる希望が約束されているので、感謝です。
’97年ごろから、賛美をCDにしてはと言う話を頂きました。多くの方の慰め、励ましとして伝道や証しのために用いられればという思いで、祈りつつ時を待ちました。昨年、道が開かれ録音し今年5月に完成しました。主人の愛唱賛美や、私が慰め励ましを頂いた曲の中から20曲を選びました。厳しくて何度も泣いてやめようとした声楽のレッスンも賛美に変えられた事、母の厳しい訓練やお手伝いがあったので自活できている事、そして母が「お母さんがいなくても困らないようにしているのよ」という意味も実感出来る者になった事は感謝です。又、視覚障害者として造って下さった神様に感謝します。
『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。主のみ告げ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(エレミヤ29:11)
○「神の作品」としての私
伊藤淳子姉
私は、1944年6月にこの世に肉体の生を受けました。父はすでに50歳、母は36歳になっており、第二次世界大戦の敗色の濃い時代でした。栄養不足の母体から生まれた私は、病気がちで、医師からも、「この子は、大人になるまで育たないだろう。」と言われていたそうです。小学校の入学式も、はしかで2週間ほどみんなと遅れて入学しました。慣れない学校生活も疲ればかり感じていたように思います。地下鉄に数駅乗っても息苦しく、ときには鼻血が出たこともありました。少女時代は、友達の親より自分の親が年をとっていて、いつ親が死んでしまうか不安でしたし、病弱な自分自身もいつ死ぬのかおびえていました。病気で学校を休んで家で寝ていると、両親は私によく童話を買ってくれました。テレビのない時代でしたから、おとなしく寝かせておくために買ってくれたのだと思います。そんなこともあって、読書好きの少女になっていって、中学生時代には、大人の小説も読めるようになっていました。生きることは、何の意味があるのか、死ぬことはどういうことなのか、日本の文学だけでなく、外国文学にも捜し求めました。特にキリスト教国の文学では、聖書のことが共通の理解されていることとして、描かれています。聖書を知らない私にはよく意味がわからなくて歯がゆい思いをしました。いつか「聖書」を読もうと思っていました。その頃は、女性が四年制大学へ進むのは普通ではなかったのですが、私はどうしても進学したくて、両親にお願いして希望の大学へ行かせてもらいました。その大学の建物の正面には、『すべての真実なこと』(ピリピ4:8)とラテン語で刻まれていました。ここで私は「真実なもの」または「真理」をつかめるかも知れないと直感しました。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。…」(ガラテヤ2:20)
この聖書の言葉にくぎづけになり、キリストとはどんな方なのかと求め始め、3年生の夏、ついに私はこのイエス・キリストが、私の罪のために十字架にかかって私の代わりに死んでくださった創造主そのお方であり、3日目に復活されて今も生きておられる「いのちの根源」なるお方だとわかったのです。私の捜し求めていた「いのち」それも「永遠のいのち」をお与えになるお方とやっと出会えた喜びと平安で、涙がとめどもなく流れたのを覚えています。このできごとが私に起こった霊の誕生でした。
-病に倒れる-
1990年の夏、私は心不全を起こして倒れました。弱い身体も、心の奥深いところでイエス様と結ばれてからは丈夫になり、結婚して3人の子どもを育てて、それなりに生きてきたのですが、その頃は、少し走ってもハアハアするし、階段の上り下りもやっとの思いであったことも事実なのですが、家族に心配をかけまいと自分で耐えていました。それでも身体の異常がだんだんひどくなり、何か大きな病気が隠れているかも知れないと夫に相談をして、夫の友人の医師の診断を受けた結果、難病の1つである「大動脈炎症候群」(別名;高安病)と診断されました。左側上半身の動脈に炎症があり、だんだんと動脈が細くなっていることがわかりました。そのために、心臓の冠動脈の血管も普通の人の2割以下の細さになって充分な血液が心臓に流れないため、心不全をおこしたのです。心臓のバイパス手術を受けることになり、40日間入院しました。手術後、心臓への血流は良くなりましたが、血管炎の症状を抑えるために、今に至るまで薬を服用しています。激しい運動は出来ませんし、食後しばらくは何も出来ない状態は変わりません。この病気がいつ発病したかと主治医に質問されても、しょっちゅう病気をしていた私としてはいつの発熱が原因なのかさっぱりわからないのでした。おそらく幼少時に発病し、私の身体の血管を徐々に細くしていったのでしょう。病院に入院中に、私と同じ病気の主婦の方もおられ、励ましてくださいました。その方は、結婚してすぐ病名がわかったので、医師から、子どもを産むことはあきらめなさいと言われていたそうです。私はそれを聞いて、難しい病気に罹っていたのも知らず、3人の子どもを生み育てさせてくださって何と感謝かと思いました。そして、3人の子どもの出産は、普通分娩ではなく3回とも帝王切開でした。どうして・・・とその意味がわからないでいましたが、心臓の弱い私の身体をご存知の主が、帝王切開による出産によって母子ともに守ってくださったのだと後になって深く主に感謝したのです。
-私の人生をふりかえって、今思うこと-
「・・・ただ、あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)
病弱だった私の身体のおかげで、イエス様と出会い、神さまの子どもとされた私自身の受けた恵みは、どれほど大きなものか計り知れません。現在私は、1992年に愛知県日進市に「アガペクリニック」を設立したクリスチャン医師である夫とともに、クリニックの三階に住んでいます。(一階は診療部門、二階は17床の病棟)そして、患者さんの心と身体とたましいの健康回復を願って、仕えさせていただいています。クリニックの上に住むことによって、私は患者さんたちに触れあう機会が多く、「聖書の集い」「聖書学校」「ミニコンサート」など、いろいろな集まりを多くのクリスチャンスタッフとともに祈りつつ、持たせていただいています。そこで知りあった方々が私と交わりを求めて来られ、救いを必要としている方には、みことばを持って救いの道を語り、弱ったクリスチャンの方とはともに祈ります。神さまは、私が出歩かなくても私のもとに人を送ってくださっています。何とすばらしい神さまのご計画があったことでしょう。そして私は日々主と交わり、みことばに励まされ、たとえ3級の身体障害者手帳を持っていても、神さまの作品としての自分自身を受け入れ、私のもとに来てくださる方々も神さまのかけがえのない愛の対象として受けとめ交わっていくことが、今の私の使命と思っています。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。・・・」(ヨハネ6:27)のみことばに従って、私の名前が「天に書きしるされている」ことを喜びの土台として、この地上の生涯を歩み続けさせていただきたいと願っています。
○イエス様にお会いしてから
湊崎真砂師(佐世保ローアバプテスト教会牧師)
私は貧しい農家の四男として、桜島の裏で生まれました。私は、4歳の時、熱病のためペニシリンの注射を受けた後、両耳が聞こえなくなりました。今も全然聞こえません。私は耳が聞こえないため、1958年4月に鹿児島ろう学校に入学し、家族から離れて12年間、三光学園という施設で育てられました。小学生時代には私が弱いため、よくいじめられ、泣くばかりの私でした。「お母さん、お母さん。」と叫んでも私に会いに来てくれなかったので、とてもつらい日々。中学部2年のとき、「私はなぜ耳が聞こえないのだろうか。」という劣等感に悩み、心がねじれていた私。父と母を恨み、家を出たいと思ったことが何度あったかわかりません。
ある日、「お母さん、僕はなぜ耳が聞こえないのだろうか。僕はかわいそうな男だ。」と言うと、母は泣きながら、「真砂、お前は四歳の時、耳が聞こえなくなったので大変なショックでした。真砂がかわいそうだ。お母さんは真砂のために身代わりになりたかったけど、出来ない。お母さんは真砂と一緒に死のうと思ったことが何度あったかわかりません。でもお父さんのためにそして6人の子供達のために強く生きてきました。」と言いました。私は母の愛情がわかるつもりでしたが、やはり生きるのはつらい。
ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。(詩篇68:19)
そのような時、私はある先輩の方に連れられて、初めてローア教会の門をくぐりました。私は、教会から頂いたトラクトを読んでも意味がわかりませんでしたが、何度も繰り返して読んでいくうちに十字架の意味がやっとわかりました。主イエスは私を愛し、私の罪のために身代わりとして十字架の上で死んで下さったということがわかりました。私は神様のすばらしい愛に感動して、涙ながらに主イエス様を私の救い主として信じるようになりました。私はイエス様にお会いしてから本当に心が変わりました。私は耳が聞こえないという劣等感から解放されました。今までの苦しみと悩みをすべて益に変えて下さった神のみわざを感謝します。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
私は言葉が口から出なくても、手話を通して神様を賛美することも、福音を宣べ伝えることも出来て、心にあふれる喜びを感謝をこめて多くの人々に証しするようになりました。
「お母さん、かつて僕はなぜ耳が聞こえないのかと不満を言ったことがあります。僕は間違っていました。本当にごめんなさい。ゆるして、ゆるして…イエス様を信じて心が変わりました。今考えてみると、耳は聞こえなくても、神様が私に一番良いことをして下さったのだから、感謝していますよ。」と母に言いました。母は何も言えない喜びで胸がいっぱいになっていました。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
イエス様によって救われた今はとても幸せです。兄たちや母や父は次々とイエス様を信じて救われたことを、神の豊かなあわれみのゆえに感謝しています。私はローア者同胞に神様のすばらしい愛と福音を伝えたくてたまらなかったので、神様の召命を受けて献身、ABWE宣教師ポール・シュック先生のもとで聖書を学びました。1975年3月に開拓伝道のため佐世保に来て、現在に至っています。そして、佐世保だけでなく、大村、諫早、長崎での伝道牧会に励んでいます。又、北海道から、本州、四国にも出かけて、伝道集会と修養会を開いています。
わたし(神)の目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1-3)
私はこの聖書のみことばを読むたびに感動しました。身体の障害者は因果応報ではない。また誰かの罪の結果ではない。罪の罰ではない。『神のわざが現れる』とは簡単に言えば、主イエス・キリストにお会いしてその救いにあずかることです。聖書には、障害や病気は決して神の罰ではなく、運命的な定めでもありません。むしろ、神の愛と救いが、障害者の上に与えられるきっかけとなります。上記のような理解に立って、自分の人生の使命を自覚的に果たすように努めましょう。
イエス様は、暗い私の心を照らしてくださいました。イエス様の光を、是非、あなたもお受け下さい。
○弱さの中に示されるキリストの恵み
有川吉一師(沖えらぶバプテスト教会牧師)
この言葉はあの伝道者パウロが語った言葉です。パウロは肉体に一つのとげが与えられていました。そして、その肉体のとげ、弱さをも彼は喜ぶ事ができました。確かに人は多くの弱さがあります。弱さを何一つ持っていない人などいません。その弱さの表れ方は人によって異なります。肉体的な弱さを持っておられる方、精神的な弱さを持っておられる方など様々です。
私にも弱さがあります。私には吃音があります。小学生の時からこの事で悩まされました。人前で緊張してしまう時には自由に話をする事ができません。緊張すればするほど話せなくなってしまいます。特に話し難い言葉があります。ですから話しながらその言葉に近い言葉(意味において)を選びつつ語っています。対面して話す分には、私の様子が分かっていただけ、まだいいのですが、電話だとそうはいきません。相手が見えず言葉だけです。ですから益々緊張しやすく、話し難くなります。私にとって人に話す事は得意な事では無く、かえって困難な事であり避けたい事です。そのような弱さを持っている私が今、牧師として人々に神様のみ言葉を話す事のできているのは本当に不思議な事です。ただ神様の恵みと憐れみとしか言う事が出来ません。今でも、話ながらつまってしまう事があります。しかし、神様は不思議にその言葉を少なくしてくださっています。私にとって吃音はある面においては辛い事です。けれども、そのような弱さを持った私をも用いて下さる神様を覚える時に、パウロが語ったように私も私の弱さを誇る事が出来ます。何故ならば、その弱さがある事によって自分ではなく、神様にこそ頼る事が出来るからです。弱さ、それは決してマイナスの面だけではありません。
パウロは、Ⅰコリント12:14~27節において、クリスチャンはキリストの体であり、また一人一人は各器官であると語っています。「それは、体の中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:25~26)
私達は誰でもが弱さを持っています。では、弱さがある事は問題なのでしょうか。決してそうではありません。その弱さの中にこそパウロのように神様の大きな愛と導きを覚える事が出来ます。また人と接する時、その痛みを知ろうとする心が私達の内に育てられ、共に苦しみ、共に喜ぶという恵みが与えられるのではないでしょうか。こうして私達は「愛する」という事を教えられて行くのだと思います。私達はキリストの体の各部分とされました。ですから弱さを補い合います。何故ならばキリストにあって一つであり、互いにキリストの体を建て上げているところの各器官であるからです。この確信を全ての兄姉が持つ事は大切です。私達の教会には肉体的な弱さ「高齢の方・障害を持っておられる方」そして、精神的な弱さを持った方もおられます。そのお一人お一人が主イエス・キリストに出会い、救われ、毎週の礼拝でいつもの席に座り、主を賛美し、祈られているその姿は私達の教会にとって大きな恵みであり祝福です。
全ての人が何らかの弱さを持っています。しかし、その弱さは弱さだけで終わるのではなく、その中から神様の栄光も生み出されて来るのではないでしょうか。
私達は「弱さの中に示されるキリストの恵み」にこそ目を留めながら、自分自身と他の兄姉の交わりにおいても成長したいと願います。